「歴史と街かと」
    東大阪、布施・永和地域

        都留弥神社、宮ノ下遺跡(貝塚)、念通寺、道しるべ、鴨高田神社、渡シ地蔵
        
☆町歩きガイド ①長栄寺(永和)、渡し地蔵尊、西堤神社、川俣神社、観音禅寺(徳庵)などpdf
                  
放出街道を歩く.pdf JR放出駅、阿遅速雄神社愛宕勝軍地蔵→諏訪神社、足代安産地蔵菩薩、布施戎神社、近鉄布施駅

  都留弥神社(式内社) 平安時代の延長5年(927年)に完成された延喜式神名帳記載の式内社である。祭神は速秋津日子神、速秋津比売神、菅原道真、推古天皇。
 布施の氏神、都留彌神社は布施の町の中央部、荒川の森に有り御祭神は縁を結び給ふと倶に家業を御守護なり、当神社の創祀は頗る古く、今より千百年前仁和二年第五十八代光孝天皇の御代の國史所載の由緒深き式内の神社です。
 第六十代醍醐天皇の延喜十庚午年は春の中旬より夏至にかけて聊かも降雨なく、河水細り井水涸れて毎日赫灼たる旱天続きにて田植すること叶はず、天皇はこのことを聞し召され深く愍み給ひ河内國に十二社を撰定し、勅使を遺はされて五月二十三日より雨乞の御祈願をなされた御祈り空しからず神応ありて、同月二十五日に至ると大雨降り来て甘水田畑にうるをし喜びの声國々に満ちた、その後続いて順雨あり連年豊作が相続いたと云う。天皇もこの奇蹟に御感ありて親しく御拝あらせられ、此時に都留彌神社の社号を賜はり従五位上を贈られた。
 また、一説に速秋津日子神、速秋津比売神は港、海の神と川の神。古大和川口にあった一対の島があり夫婦が祭神でもあるから「つるむ」都留美島から都留彌に転化した。
(スケッチは山田修さんの作品)
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 宮ノ下遺跡(貝塚) 
 
布施駅前の「サティ」の敷地の地下に約2000年前に作られた貝塚があったとは誰も想像できない。平成4年、布施駅北側の駅前再開発ビルに先立つ試掘調査で縄文時代晩期~弥生時代の貝塚が発見されたことで存在が知られた。その後の調査で、縄文時代晩期末から弥生時代中期初頭に形成されたセタシジミを中心とした淡水産の貝塚。中期後半の掘立柱建物、杭列、土墳墓ないし木棺墓などが発見された。また、弥生時代後期末~古墳時代前期、中期後半、平安時代中期、鎌倉時代~室町時代の遺物も出土しており、各時代の集落が存在したと考えられる。
 最大の貝塚は、南北約25m東西約10m、厚さ約1mの規模がある。貝塚には、棄てられた土器、木製品や石器の他に食べた後に捨てられたマガキ・ハマグリ・サザエなどの海産の貝やイノシシ等の獣骨も含まれている。土偶も出土している。貝塚が作られなくなる直前は、小規模なものに変化している。 入れ替わりに稲作に必要な石包丁などが出土している。これは、漁撈・採集を中心とした漁村から中期中頃に稲作を中心とした農村に変化したことを示している。背景に湖の水位など自然環境の変化により、周囲に水稲耕作に適した土地が形成されたことが考えられる。
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 念通寺
 
念通寺は遙向山と号し浄土真宗大谷派の寺院である。開基は戦国時代が終わろうとしていた慶長年間(1596~1614)といわれている。尾張の武士であった開祖が長く続いた戦乱を嫌い、仏門に入り荒川に小さな庵を結んだ後、教如上人か宣如上人の時代に浄土真宗の道場となったようだ。
 住職の姓が尾野田氏。尾張から来た野田氏ということのようだ。
 本尊は制作年代不詳だが古い木像の阿弥陀仏である。また、聖徳太子立像が祀られている。
念通寺の前に道標(道しるべ)がある。「左 十三こゑ」「南 ひらの」「右 大坂」の文字が認められる。この東西の道が昔の十三街道であることがうかがえる。十三街道は、摂津玉造を起点とする「暗峠越え奈良街道」と深江で分岐し河内足代村に入る。ここから更に東進し、荒川から菱江西で長瀬川を渡り、上小阪、若江南に来、河内街道を少し南に歩き西郡に入り、玉串川を越えて福万寺、次に恩地川を越えて高安山麓の楽音寺で東高野街道と交差、それから山麓を登り勢野、竜田に至り法隆寺、伊勢に通ずる道である。


 鴨高田神社(式内社)
 
鴨高田神社は、延喜式神名帳に載っているいわゆる延喜式内社で、渋川郡六座の筆頭に位置する官幣小社であった。創建は、今から1336年前の白鳳二年(673年)と伝えられる。古代の河内は川が運ぶ土砂などで河内胡がどんどん陸地化していた。人々は生駒山麓や湿地帯の高いところに居住し農耕を営んでいたと思われる。ここに居住していた鴨氏の祖先神を祀ったことが神社の始まりで社名はそれに由来すると言われている。
 鴨氏とは、加茂・賀茂・甘茂ともいい、「古事記」では崇神天皇の時、流行する疫病を鎮めるために御諸山の意富美和之大神(おほみわのおほかみ・古事記での神名)を祀った大物主大神(日本書紀の神名)の四世孫、意富多泥古を神君とともに始祖とする、と記されている。三輪の大物主大神の子孫である鴨氏は三輪氏のようにヤマトに居住せず、河内、摂津、葛城、紀ノ川流域を拠点としていたようだ。
 祭神は、素戔鳴命に大鴨積命と神功皇后、応神天皇の四神を祀っている。
 中世の鴨高田神社は岩清水八幡宮領として河内国高井田庄の名が見えてをり、八幡宮と称されていた。
 400年前、この付近一帯が戦場となった大阪夏の陣[元和元年(1615年)]の兵火に巻き込まれ社殿の残念ながら全てが焼失した。帰し後数年を経て再建されたのが現在の本殿である。
境内にある石造物として正面鳥居横に享保13年(1728年)銘の石灯籠一対、拝殿前の安永3年(1774年)銘の石灯籠一対がありいずれも「八幡宮」の文字が彫られている。そして、本殿前には寛政9年(1797年)銘の狛犬がある。本殿西側にある古木は「お駒樟」といわれ、今は枯れて幹が少し残っている程度だが、1000年経ったものといわれている。これらのことは、鴨高田神社の歴史の古さと由緒の深さを物語っている。(スケッチは山田修さんの作品)

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 渡シ地蔵
 高井田元町にある渡シ地蔵の線香立ての石柱に「渡シ地蔵」と刻まれている。祀られているのは、花崗岩質の高さ95cm・幅30cmの舟形光背内に、ほぼ等身大の高さ70cmの地蔵菩薩立像。制作年代は確認されていないが、作風から江戸時代初期の作と推定されている。
 近鉄永和駅と小阪駅の間を流れる長瀬川は、旧大和川の本流で長瀬川と呼ばれていた。ここ渡シ地蔵が立つ場所は長瀬川の西側堤防にあたり、川幅がなんと200m近くもあって、舟の渡し場になっていた。
 この地蔵尊は渡船場が近くにあってために名付けられた。当時の大和川には名物の剣先舟が行き交っており、お伊勢参りなどで暗越奈良街道を往来する人々で大変賑わっていた船着き場に立つ地蔵さんは、いつも川を見渡しながら旅人の行路の安全を見守り、水難で亡くなった死者の霊を慰め、川の流れを見つめていたように今日までの歴史の移り変わりをつぶさに眺めてきたことでしょう。
 1704年(宝永元年)付け替え後は川床が埋め立てられて新喜多新田となり、船着き場はなくなった。
 ここから、北へ200m行くと暗越奈良街道に出会う。その角に道標があり、道標の西面には枚岡一里三十三丁、東面には大阪高麗橋より……とある。大阪高麗橋は奈良街道の起点だ。道標のあるお家は少し前まで茅葺き屋根の昔の佇まいを残していたそうで団子を売っていた茶店だったそうだ。
 この辺りは、土地の低いところでちょっと雨が降れば雨水は西へ流れて水害をよく起こしていた。だから、西岸地蔵、高井田地蔵など辻のあっちこっちにお地蔵さんが祀られている。
 この高井田には渡シ地蔵をはじめ多くのお地蔵さんが祀られているところだ。それは、自然の厳しさの中で人々の安穏な日々の生活を切に願う姿が見えてくる。
 
 近鉄 奈良線 永和駅 東北へ 渡シ地蔵の所在地は高井田元町2-29。

 
 布施戎神社


 左・三つ柏・西宮神社 右・蔓柏・今宮戎神社
 大正3年、都留彌神社が移転した時に、当境内地は地元足代の有志へ払い下げられ、民有共有地として保管されてきた。この由緒ある境内地跡に地元の要望に従い、昭和29年(1954)西宮神社から戎大神(蛭子・ひるこの尊)の御霊代(みたましろ)を勧請して布施戎神社の祭祀が始まった。周辺地域が商業地として発展するにともない、更に昭和63年(1988)には大阪の今宮戎神社(事代主命)を勧請した。以来、参拝者も飛躍的に増加し、毎年1月9日、10日、11日の十日戎には商売繁盛を願う参拝者が群れをなし、境内地は身動きができないほどの賑わいとなっている。境内のえびす像は、鋳造では日本一大きいといわれているが、胸に刻まれた社紋はを見れば、今宮戎から勧請されたえびす神とわかる。
では、なぜ今宮戎神社(事代主命)を勧請したことで、参拝者が急増し、布施の街のシンボルとなってきたのか。そこには、なんとも言えない由縁が地域の歴史にあった。謎解きを少し試みたい。           
 ところで、主祭神の「えびす」は漁業や海上安全、特に商売繁盛の神様で有名で、庶民に親しみ深く大変人気がある。「えびす」には戎・恵美須・恵比寿・恵比須・胡などの漢字も当てられているが、恵比寿そのものが異邦人を意味する言葉で、異郷から来臨して幸せをもたらす客神であったものと考えられている。
 西宮神社(戎社3500社の総本社)の祭神、えびす神の中でも一番古くから語られているが、『古事記』『日本書紀』の国生みの条に登場する蛭子(ひるこ)の神。この神は、伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の神が日本国土を創世する際に、その第一子として誕生したが、手足の不自由な障害者と描かれ、天磐樟船(あめのいわくすぶね)に乗せられ捨てられ自凝(おのころ)島(淡路、三原)から流されてしまう。」と記されている。流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っているが、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。西宮に鎮座したのは、古くは、神戸・和田岬の沖より出現された神像を、鳴尾の漁師がお祀りしていたが、神託により西宮に祀られたことに起源としている。
後に、鎌倉時代の『源平盛衰記』には次のような記事が登場する。
「蛭子は3年迄足立たぬ尊とておはしければ、天磐樟船に乗せ奉り、大海が原に推し出されて流され給ひしが、摂津の国に流れよりて、海を領する神となりて、戎三郎殿と顕れ給うて、西宮におはします。」
 すでに鎌倉時代には 、このように、蛭子(ひるこ)神が、えびす神という認識がなされていたようだ。
えびす神には、もう一つ、今宮戎神社で祀られている事代主神=八重事代主神。この神は 『古事記』『日本書紀』によると大国主命の御子神であるとされている。
「事代主命は、葦原中国平定において、武甕槌命(たけみかづち)らが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこで武甕槌命が美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった」。
漁をしていた神様だから、布施戎神社の「えびす像」のように、よく船に乗っており鯛を持った姿で描かれ、海辺で魚釣りを楽しんでいたように伝えられており、その様子が「えびす様」の神影の釣り姿と結びつくところから、えびす神の神格に繋がったようだ。因みに東山町に鎮座する額田戎神社は、天保15年(1844)の村明細帳に夷大明神とあり、事代主神を祀っている。
本題に戻そう。なぜ、布施えびす神社が事代主神を勧請したことで、布施えびす神社は大繁盛、町を活気づけることができたのか。
実は、えびす神となった事代主神は元来「鴨氏」が信仰していた神であるということ。
 昨年、訪れた葛城の鴨都波神社は、宮中八神の一社にして鎮魂の祭礼に預かり給う延喜式内名神大社である。創建は、第10崇神天皇の時代に大国主命第11世太田田根子の孫、大賀茂都美命(大鴨積命)に奉斎されたのが始めとされている。また、主祭神の「積羽ハ重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)」は、大国主命の子どもにあたる神。また、下照比売(したてるひめ)は大国主命の娘神で八重事代主命の妹神。阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね)の妹神でもある。
現在の布施駅北側一帯に「宮ノ下遺跡」(縄文後期~弥生期の貝塚遺跡)が広がっていた。1500年程前には、その南側の旧大和川河口付近に都留弥神社が鎮座していたと思われる。また、近接する長堂あたりには葛城・御所から移住した加茂氏が崇敬していた大鴨積命を祭神とする鴨高田神社が鎮座していた。そして、古代河内湖を挟んで対岸の阿遅速雄神社(あじはやお・鶴見区放出)神社は、葛城の高鴨神社と同じ味耜高彦根神(あじすきたかひこね)を祀っている。
 葛城川が大和川に合流するように、開発の神であるこの二神を奉戴していた葛城の古代氏族が、実は、5~6世紀初頭まで河内湖、周縁地を開発、支配していたと考えられている。
現代、加茂氏、末裔含め多くの方が布施・長堂周辺に居住されている。祖先神の事代主命・えびす神を勧請したことで、都留弥=「対るむ」神と人々をつなぐ土地の持つ霊力と開発神・事代主と奉賛してきた子孫達のパワーが相乗作用をもたらし、大きなパワーを創り出されたと考えることも可能ではないか。
布施えびす神社の興隆には、意外な繋がりが見えて歴史のおもしろさを感じる。

東大阪、 日下・石切