「歴史と街かと」
 
 小阪・八戸の里地域
  小阪駅前「平和を祈る乙女」、 
田辺聖子文学館(大阪樟蔭女子大学内)、
     帝国キネマ長瀬撮影場跡、瓜生堂遺跡・方形周溝墓
、御厨天神社、みくりや観音堂、
    暗越奈良街道と辻地蔵、念佛寺と阿弥陀三尊像、
    


    平和を祈る乙女像            小阪駅前「平和を祈る乙女」

  駅前のロータリーに立つ女性像。その由緒が書かれていないこと不思議に思っていたひとも少なからずおられたことでしょう。東大阪学研究会として聞き取りを含め「大阪空襲史」「東大阪市史」などの文献を調べてみると、実は、1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が落ちたその日に小阪駅前南側が空襲を受けていた。翌日の朝刊に「6日西宮方面を焼爆した敵機のうち最期に近いものが脱去の途、布施市各所に焼夷弾を投下した、……」という記事があった。全焼141戸、半焼32戸罹災者656人」という資料が残っている。たった一発の焼夷弾。それも、空母に帰還する途中の落とし損なった一発。まさに「とばっちり」空襲であった。
 文化財を学ぶ会では、「小阪空襲を語る会」を開き、空襲体験、戦争体験された人たちにお越しいただいた。参加者には、初めて駅前が空襲に遭っていたことを知った人もおられた。その中で、「鳩をもつ女性」像が地元の篤志家によって建てられたことを知った。心の中に平和を守る砦を築くシンボルとして、「平和を祈る乙女像」と名付けた。
 右上の千羽鶴はどなたかがかけられたのでしょうか、大変うれしいことです。西堤小学校の子どもたちや小阪中の生徒さん達によって新な平和の祈りと共にかけられたと聞いたりすると心強いものを感じる。

 
 ちなみに、終戦の年、1945年の東大阪への空襲を紹介すると、
 3/13〜14     深夜11時20分。足代、三ノ瀬などで第三国民学校(現三ノ瀬小学校)の校舎一棟を含む
             131戸が全焼、4人の死者。
 3/25        一機来襲 長田、新家、荒本などの田畑に投弾。
 5/9         高井田東など5ケ所が被弾。1戸が全壊。高射砲によるB29撃墜
 6/ 1         額田、英田への空襲。7戸が全焼。
 6/15        足代、長堂、高井田などを爆撃。日本大学専門学校(現近大)、
             航空工業学校(現布高等専門学校)、楠根国民学校(現楠根小学校)を含む609戸が全焼。
             死者7人、行方不明者9人。
 8/6         小阪駅前、123戸が全焼。

 最寄り駅近鉄奈良線 小阪駅前南側


田辺聖子文学館         田辺聖子文学館(大阪樟蔭女子大学・小阪キャンパス内)
 大阪樟蔭女子大学の卒業生であり、芥川賞作家でもある田辺聖子さんの世界を紹介する「田辺聖子文学館」が昨年の6月にオープンしている。田辺聖子さんは小説、エッセイまたは、古典を素材にした多くの著作があり1957年の 第2回新人創作文藝懸賞をはじめとして1964年には第50回芥川賞『感傷旅行』1976年大阪芸術賞、1987年第26回女流文学賞『花衣ぬぐやまつわる・・・ ―わが愛の杉田久女―』、1990年第10回日本文芸大賞 1993年第27回吉川英治文学賞『ひねくれ一茶』1994年第42回菊池寛賞、1995年紫綬褒章などの栄誉に輝いている。
 文学館では田辺さんの文学の世界だけでなく、その半生や書斎の再現、愛用品の数々など、田辺聖子さんの世界を余すところなく紹介している。田辺聖子さんと言えば、大阪ことばに託された軽妙なユーモアと笑いから、はんなりと温かく、しかしその底に流れるたおやかな批評心を思い起こされる。この文学館内はまさに田辺聖子さんの人柄と作風が具体的に顕され「はんなり」とした柔らかい温かい雰囲気が醸し出されているので、落ち着いて楽しく見学することができる。展示内容は「夢」をコンセプトにして幼少から才能豊かな田辺聖子さんの生い立ち、小説家としての活動を年代ごとに上手くまとめられている。特に、12〜13才頃から文字に親しまれ、多くの本を読み、小説にまとめられていたというエピソートがあるが、16歳で当時の樟蔭女子専門学校国文科に入学されたときの文芸倶楽部での同人誌「青い壺」の創刊号が展示されている。
 近鉄 河内小阪駅 南西すぐ。
 
なお、小阪駅周辺には、有名な司馬遼太カ記念館、大阪商業大学内に商業史博物館、少し東に行って八戸ノ里駅前にグリコのおまけのおもちゃを集めた宮本順三記念館 豆玩舎(おまけや)ZUNZO(ズンゾ)がある。追って紹介したい。


  瓜生堂遺跡・方形周溝墓
 讃岐産の甕、土佐産の甕第2寝屋川東側小阪ポンプ場内にある、瓜生堂遺跡は今は殆ど市民の目には触れることがない。発掘調査が開始された1970年には河内平野に墓域を伴なった大きなムラがあったことが分かり一躍全国に有名になった弥生時代前期(紀元前8〜5世紀)遺跡だ。
 縄文海進により大阪湾は現在よりぐっと生駒山の麓まで入り込んでいた2600年前、洪水の心配のない海岸沿いの微高地(古代エミシ語でウリュウは微高地のこと)につくられた竪穴住居跡、水田跡が発掘されている。弥生中期の大きなムラの存在をあらわす環濠や水田跡からは、石包丁・木製の鋤、鍬、甕、高杯、鉢、水差しなどの遺物が出土し、特に、15基以上の方形周溝墓、2基の円形周溝墓、数基の土器棺が墓域とおもわれる所から発掘された。弥生後期には讃岐産の甕、土佐産の甕が出土し、2000年前の河内湖南岸と瀬戸内の各地、特に吉備や四国そして紀州との交易がしのばれる。また、水田の遺構から吉備の児島の水田の作りと同じ形式とは驚きだ。

  第2寝屋川東側小阪ポンプ場には、近鉄八戸ノ里駅 南へ第二寝屋川沿いに300メートル


谷岡記念館           商業史博物館大阪商業大学内谷岡記念館
 「商大」と親しまれている大阪商業大学に商業史博物館がある。身近な博物館・ミュージアムとして一般公開もされている。大判、小判
 大阪商業大学の創立者にちなんで命名された谷岡記念館は、大阪商業大学の前身、大阪城東商業学校時代の本館を、学園創立50周年記念事業の一環として修復したもので、平成12年(2000)東大阪市では初めて、国の登録有形文化財となっている。
 館内には学園資料室、商業史博物館、河内の郷土文化サークルセンターが設置されている。特に商業史博物館は、江戸時代の大阪で使われた商業に関する道具(そろばん・千両箱・財布・天秤・看板・硯箱など)や江戸時代の大阪に関する古文書や絵図などを保管・展示している商業史資料室と河内の綿と稲作をテーマに構成された郷土史資料室があり、いずれも郷土の歴史、くらしがよく分かる展示内容になっている。一般公開され幅広い領域での研究活動も行われており、紀要・史料叢書等の発行や研究会・講演会の開催、地域文化活動支援にも積極的に取り組んでいる。


御厨天神社と樹齢800年のクスノキ

 天神社は、奈良街道が通っていた旧御厨村の中央にある。創建年代は詳らかではないが、延喜式に意伎部神社があり、これは村名が社名になったもので、現在の社名は近世に改称されたものである。古くは意岐部神社、または御厨神社と称していたと伝えられ由緒深い神社である。 祭~は大名持命(大國主命)・少彦名命の2~を祀っている。別名御厨子明神とも呼ばれ、末社に智葉神社、玉岡神社、外に三柱がある。なかでも境内奥まった所に鎮座する智葉神社は霊験あらたかでどのような願い事も叶えていただけると評判。
 御厨というのは、朝廷や神社などに魚鳥・米穀・果物の類を納める土地を表している。東大阪北部は古代から中世にかけて旧大和川が大きく蛇行し絶えず洪水の恐れがあったが、古くからの「水」との戦いの結果、この辺りは海の幸、川の幸など豊穣な恵みがもたらされ延喜5年(905)、この付近に広がる湖沼一帯を「大江御厨」と定めたことに由来している。
 
                                                         鳥居をくぐり境内にはいるといきなり大きなクスノキが目に入る。市内最古、樹齢800年といわれる幹周り6メートル、樹高約20メートルのクスノキの根元から枝先まで目で追うと、腰が曲がってしまうほどの高さだ。樹齢が800年ということもあってか、樹皮が少し痛んだ所があったようだが樹医の手当を受け少しずつ樹皮が回復しているとのこと。老齢であるが精が強くまだまだ元気なクスノキである。このクスノキの数え切れないほどある葉の一枚一枚から爽やかな香りと見る者を圧倒するような雰囲気が醸し出されていた。神社を訪れる方は「クスノキの『気』をもらえる」と言って喜んでおられるということだが、まさにその通りだ。なお、平成10年に市の天然記念物に指定されている。
 石造物は、拝殿横の八角大型石燈籠があり、秋篠寺のと同形といわれている。また、元禄十年(1697年)銘の石燈籠もある。神社の入り口脇に村相撲の力士寄進による立派な社号石碑があり、板番付が神社に伝えられている。玉を踏んだ狛犬(寛政9年・1797年)や正徳元年(1711年)銘のある手水鉢がある。(スケッチは山田修さんの作品)

      近鉄奈良線小阪駅北東へ800メートル


  みくりや観音堂 (念佛寺境内)十一観世音菩薩像
 みくりや観音堂御厨天神社の西、念仏寺境内の一角にみくりや観音堂がある。この観音堂は明治32(1899)年地元有志によって天神社(?)から現在地に移転されている。先年、御厨に所縁のある比叡山千日回峰行で有名な大阿闍梨酒井雄哉師をお呼びしてみくりや観音御遷座百年祭が執り行われた。その時から懸案であった観音堂の改築、十一面観世音菩薩像の修復も昨年に終えられた。人々を苦難から救うといわれている十一面観音菩薩像は、頭部正面に、阿弥陀如来の化仏(けぶつ)をいだき、頭上には仏面、菩薩面、瞋怒面(しんぬめん)、狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)、大笑面など、人間の喜怒哀楽を表現した面を乗せ、右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている。御厨の十一面観音菩薩さんはいかにも柔らかなお顔の雰囲気があり、平安時代後期の作かと思われる。惜しいことに江戸時代に修理をされたとのこと。しかし立派な像である。
 不思議なことに観音堂の脇に「十一面観世音菩薩 平 景清守護仏」と書かれた碑が新しく建っている。平 景清の眼病の治癒と関係があるのだろうか。
 節分の2月3日には、初めてみくりや観音講を中心として護摩供養が行われ多数の人々が参拝されたと聞く。当日、御厨会館での厄落としの「ぜんざいの振る舞い」、そして、天神社では節分会があり、地域一帯が神や仏を身近に感じる一日になったようだ。

 

 暗峠越え奈良街道と辻地蔵
 
暗峠越奈良街道は、大阪と奈良を結ぶ街道のひとつで、生駒山地を暗峠で越える最短ルートの街道である。道自体は古代から存在したと思われるが、豊臣時代に整備され、江戸時代には旅客、貨物の重要な交通路として利用され、特に伊勢参りの旅人により大いに賑わった。江戸時代の起点は玉造であった。深江稲荷神社、長栄寺、新喜多橋、渡し地蔵を通って御厨に入る。明治時代、御厨には茶店が三軒あったと伝えられている位賑わっていた。御厨会館前のすこし変形の四叉路に建つ可愛い辻地蔵さんは、奈良街道の道標であったものに地蔵さんが彫られたようで、街道を往来する人々の安全を見守ってきた。辻地蔵さんの身体の下に「左 大坂」「右 いせ なら」とある。この辻地蔵さんをお世話されているのは、この周辺の人たち。小さなお地蔵さんだが地蔵盆では提灯に明かりを灯し子ども達の健やかな成長を共に喜ばれるそうだ。
 旧街道沿いには御厨会館が建っているが、現在でも「伊勢参り」「暗越」を体験するツアーの人々が「用」をたしに利用されていて管理の方もよく心得ておられ、正月や時候の佳いときにはオープンにされている。またこの場所には明治14年4月1日「八尾警察御厨分署」が設置されていた。旧布施市内の警察施設は明治7年2月に旧御厨村に屯所(とんしょ)が置かれたのに始まりで、この屯所というのは、邏卒(らそつ)と呼ばれた巡査が時々交番張りするところとされていた。御厨警察署となったのは大正15年であった。昭和3年まで御厨分署として使われていた。
このように暗峠越奈良街道の「御厨」は江戸、明治時代を通して賑わい文化の進んでいた街だった。「文明開化の街」と説明板があった。
                 近鉄奈良線河内小阪駅北へ 旧暗峠越え奈良街道筋

              


 阿弥陀如来三尊菩薩御厨念佛寺と阿弥陀三尊像
 念佛寺は御厨の古い町並みの西端近くにあり、大阪平野の総本山大念仏寺の末寺になる。創建時期は不明だが、本尊の阿弥陀三尊像が当寺に祀られたのは大阪夏の陣の元和元(1615)年證誉住持によって当寺に迎えられたことが墨書されている。夏の陣は戦場になった若江だけでなくこの御厨にも及び御厨の橋が落ちたり戦死者を弔うために建てられ阿弥陀如来が祀られたのではと考えられる。
 
 ご本尊の阿弥陀如来座像は、桧材の寄木造で左右の脇侍とともに東大阪市の有形文化財に指定されている。胎内に舎利六粒・水晶一顆(か)・浄土三部経(写経)・木造蓮華台などが納められている。このことは木像造立にあたっての篤い念仏信仰が伺われ、さらに寛永3(1750)年に下座、安永3(1774)年には、新たに光背と蓮華座が造立されている。また両脇侍の観音、勢至菩薩の二菩薩像(桧材の寄木造)は寛永3(1750)年に造り加えられたこと、そして、近くの御厨延命厄除地蔵石仏の台石に亨保6(1721)年の銘とともに「御厨村融通念仏講中」と刻まれている。


                
                                



  三井会所跡と新家菅原神社
 
市内には菱屋東・中・西と「菱屋」と名のつく地名が三ケ所あり、これらは新田開発の工事を請負った新家村の商人菱屋庄左衛門の屋号をとったもので、菱屋の本名は「規矩氏」といい、新家村を元和2年(1616)に開発した紀州根来の武士の子孫にあたる。大和川付け替え工事後開発したこれらの新田も享保17年(1732)江戸の三井家の所有となり、これらの土地を管理していた事務所が「三井会所」。
 平成12年の区画整理で、菱屋中という地名がなくなったのを地元の人が惜しみ、菱屋中の地名顕彰碑も建てられている。
なお、「住友」と縁のある新田が八尾の山本新田である。山本新田は、大和川付け替え工事後、旧河川・湖沼跡に広大な敷地ができたが、そのうちの万願寺集落近傍・南北約3kmほどの新田の開発権利を、山中庄兵衛正永・本山弥右衛門重英 両名が落札し、新田開発を請け負った。新田名、地名は両名の名字から取られている。
 享保9年(1724)の大坂の大火で、本山の商家である「加賀屋」も焼失し、新田を抵当にしていた融資が返済できず、享保13年(1728)に融資元である「泉屋」の住友吉左衛門に新田を譲った。以来、この地は昭和15年(1940)9月まで住友家(住友財閥)の所有であった。
 菅原神社は、暗越奈良街道の北側にある。
 説明板によると『新家は新しく開かれた村という意味で、全国各地に同様の地名があります。本市の新家は、規矩(きく)氏によって開かれたと伝えられています。規矩氏は、戦国時代に栄えた和歌山の根来寺に属する武士集団の一員でした。当時、全国統一を望む織田信長と敵対し、天正13年(1585)羽柴秀吉による紀州攻めにあい、根来寺は消失し、人々は各地に離散しました。その後、天和2年(1616)規矩九右衛門と弟の新三郎がこの地を開拓し、村をつくりました。当時の村高は周辺の村と比べて少なく236石と記録に残されています。4代目の庄左衛門は幕府御用を勤める商人で、菱屋(ひしや)と称していました。宝永元年(1704)大和川が付け替えられると、その子岩之助と新田の開発に参画し、合計約68町余の菱谷西・中・東の三新田を開発しました。暗越奈良街道の北側に沿う家並みの背後にある氏神の菅原神社は、字砂開の地にあり、菅原道真公を祀っています。神社の石の鳥居には「元禄戌寅十一年九月吉日願主菱屋庄左衛門…」の文字が認められ、新田開発者の庄左衛門が寄進したものであることがわかります。平成18年3月東大阪市』とある。




    東大阪、長田・稻田へ