東大阪中央ライオンズクラブCN40周年記念講演レジメ

木村長門守重成
    重成は炎上する大阪城を見なかった
1.はじめに
  「夏の陣・若江の戦い」までの経過
   1600年(慶長5年)・・・関が原の戦い 秀吉死後2年
   1603年(慶長8年)・・・徳川家康、征夷大将軍に
   1614年(慶長19年)・・・大坂冬の陣 方広寺大仏殿
      「国家安康 君臣豊楽」がきっかけ
     東軍20万ー籠城ー講和ー裸城に 「堀を掘り返す」→国替えかを迫る
  「若江の戦い」
   1615年5月6日 4700名 午前2時 霖雨の中 大阪城を出る
2.若き武将「木村長門守重成」
  19才。母が秀頼の乳母 秀頼の近習 
   背丈が高く面立ちに気品が
(1)「敵は急、私のことは棄てておいて早くお戻り下さい」 と、手負いの河井何右衛門
   「私は貴公のお迎えに来たのだ。敵が出たからと言って貴公を放り棄てて戻るくらいなら、
    初めから来ないだろう」
   初陣が「冬の陣」ー今福の戦い 四重の柵防御ライン 三つまで破られる
   東軍佐竹義宣8000。重成5000を率いて追い返す。再度、単騎で扉を開け捜索に
                         ー胆力、武力、リーダーとしての器量、部下思いー
 
(2)午前5時若江に着く。
   「長門守殿、すでにあなたは存分に戦われた。もう城に戻られよ」馬立(うまんたて)跡
   「まだ、家康・秀忠の首級を取っていない」ー飯島三郎右衛門の進言に
   藤堂部隊先鋒、藤堂良勝隊を壊滅した後。 ー揺るぎない目的意識ー

(3)ひとときの休息の後、大坂城を望見ー中小阪、弥栄神社「馬立(うまんたて)」跡
   1583年築城の五層八階、天守閣(安土城を凌ぐ)
   15年間かけた難攻不落の城。政治、経済、軍事、文化の中心、拠点
    ー説明文に「炎に包まれて」とあるが……。城炎上は7日午後5時ごろ
    重成公は大阪城炎上を見ていない。(文化財課設置の説明文は間違い)
    馬の背に立って大阪城を望むー母、妻、城への感謝の気持ちかー   
    小坂の「馬立」→小高い丘があった模様。そのいただきに馬を寄せた。

 (4)「自分の首級を取って手柄にせよ」
   傷つき力尽きた重成が、井伊掃部直孝方の安藤重勝(18歳)に
    庵原助右衛門朝昌(家老)の十文字槍で討ち倒されている。
    150年後、安藤重勝の子孫が通称木村公園に墓碑(供養塔)を建てる
                                  ー命をかけている者同士の共感ー
 (5)「首はなはだ薫ず」
   家康は切られた兜の忍ぶ緒を見て賞賛の言葉を漏らした。   
   そして、重成の毛髪から匂い立つ香りに言葉を失った。
    真田幸村、後藤又兵衛の首実検はしていない   ー覚悟ー 
                                   ーもののあわれ  惻隠の情ー

3.おわりに
  「古人の跡を求めず、古人の求めたる 所を求めよ。」
   その根源の「心」を探求したい。
 
 木村重成の妻 「尾花」自刃の遺書。
一樹の蔭、一河の流れ、是他生の縁と承り候が、そも、をととせの此よりして偕老の枕を共にして、只影の形に添ふが如くなれまいらせ候おん情こそはうれしう候へ。この頃承り候へば、主家の為め最早最後の御一戦のお覚悟の由、かげながら嬉しく思ひまいらせ候。唐の項王とやらむの虞氏(虞美人)、木曾義仲(松)殿の局、さるためしは、わが身も厭はしう候、されば世に望み窮りたる妾(わらは)が身にては、せめて御身御存生の中に最後を致し、死出の道とやらんにて待ち上げ奉り候、必ず必ず秀頼公多年海山の鴻恩御忘却なき様頼みまいらせ候、あらあらめでたくかしこ。妻より (新渡戸稲造著『対訳 武士道』から)
 「貞烈の碑」は、重成像の横に建てられている。
                                   

                         
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