「歴史と街かと」
 
花園、英田(あかだ)松原、吉田地域
   
 津原神社、「花屋敷」遺跡、塞の神(道祖神)、十三仏板碑(西昌寺境内)、
      子安地蔵尊、吉田春日神社ーラグビー神社、近鉄花園ラグビー場

     松原宿跡と地蔵尊、賽の神神社、大津神社と扁額



 池がご神体の津原神社(式内社

津原神社  式内社津原神社(元玉櫛明神)の由緒は、玉櫛荘の祖神天玉櫛彦之命が、古代この地を治めていたが、天平勝宝6年(754)8月長雨の時、大和・河内の境から櫛笥と橘を川に流し、櫛笥が流れ着いたこの地に神を祀り、水難を逃れたことから天児屋根神並びに玉櫛荘の祖神天玉櫛彦之命・天玉櫛姫命を祀るようになり「農耕の神様」として今に至っている。鎌倉時代の説話集『續古事談』に、平等院に寄進された全国からのお米の中で、この辺りでとれた米が一番優れていると紹介されている程、この地は豊かで農業の盛んな土地だったと思われる。川の名を玉串川と呼び、このあたり定日に市が立ったので「市場」の字名がある。
 境内に若宮神社ほか五末社とご神体の「津原の池」がある。若宮神社の祭神は天上の「天津水(あまつみず)」を持ち帰ったといわれている天児屋根神の子の天忍雲根神である。
 写真の石鳥居には脚部に「元禄12己卯年 (1699)11月20日」、額に「玉櫛惣社」と記されている。石鳥居から本殿まで続く参道は、相当長く府道を越え6丁(約700m)もあり、河内3大馬場に数えられていた。馬駆け神事も行われたようで、往時の隆盛が偲ばれる。
 今は民家が立て込んでいるが、昭和の初めまでは西には松林、東側は田園が広がり、河内木綿の産地だった。また、まだ帝国キネマ長瀬撮影場があったころ、この参道(馬場)の松林を使って時代劇の撮影が行われていた。  
 拝殿前の楠木が大きく池の背後の木々も、かってのこの地域の風物を伝えている。また、ご神体の「津原の池」には亀が岩の上で甲羅干しをしていた。(スケッチは山田修さんの作品)
 最寄り駅 近鉄奈良線 花園駅南へ。花園北小学校南側






 15世紀の遺構、「花屋敷」遺跡 

「花屋敷」遺跡発掘現場

 今、花園駅前は、駅前再開発事業によって多くの家屋が壊され新しい建築物の登場を待っている。
吉田川と菱江川の堤防跡地に立った花園商店街も消えた。だけど、花園駅前・ショッピングセンター東側の地下 2メートルの砂質面より、13世紀〜15世紀の「瓦器破片」が大量に出土した。14世紀の集落跡と思われる遺跡で、掘っ立て柱跡とか出ており、当時の吉田川、菱江川流域の小高い所に建てられていた、掘っ立て柱住居か、寺と思われる柱跡が出ている。当時の字名から「花屋敷」遺跡と呼ばれている。瓦器破片は、11世紀から14世紀にかけて瓦質燒成の土器、灰黒色の”黒色土器”の系列につながる火鉢、壺、甕、鍋、焙烙、すり鉢などの日常の瓦器が大量に出土していることから、吉田川周辺に住んでいた多くの人たちの日常生活ぶりが伺え興味深いものがある。土器や瓦器の製法の違いから多くの場所と交易があったことが伺える。又、唐から渡ってきたと思われる青磁(?)の欠片が出ていることから「唐」との交易の場所であったかも知れない。


 出土した遺物を列挙する。
 @旧玉串川の自然堤防の微高地に建物群跡。柱穴、丸瓦、井戸、貯水施設(桶)。溝
 A陶磁器 中国製の白磁、青磁。愛知の常滑焼、瀬戸焼。備前焼、土師器多数。漆器椀
 B機織、鉄滓
 C北宋の銅銭、大觀通寶、元符通寶(2枚)
 D木簡二札、
   ○「西方源三上」
     西方国賢(嘉吉の変1399年以後、畠山持国に近侍。河内国守護代に) 
   ○「□(吉か)田八郎小麦十九把又ハ□(苧か)カラ六把」
      苧(からむし)茎は繊維の材料の一種。
 
 以上の出土品や地名(字名)「市場」「川島」「花屋敷」や花屋敷周辺の土地条件図、13後半〜15世紀の「花屋敷」周辺の動き(若江城の存在)
 14世紀末に守護代遊佐氏によって若江城築城されていること(河内国守護所1477年まで)等から
 中世の花園は
   ☆交易の中心地
     西昌寺の子安地蔵菩薩像、十三仏板碑(1609年銘)
     「一貫が川島」一貫上人
     吉田春日神社
     二尊仏(地蔵菩薩と阿弥陀如来)

   ☆武家屋敷、河内国守護代に近い人物の屋敷地
     足利義満の幕府=花御所、花御殿

  と考えられる。文化の薫り豊かな町、多くの人・モノが行き交う町でもあったようだ。


   
     最寄り駅 近鉄奈良線 花園駅前 


 塞の神(道祖神)と歯神さん
       吉田の「塞の神」                    つい先だって、花屋敷遺跡が発掘されましたが、このあたりは「花園」「花屋敷」といわれたように、四季折々に草花が咲く田園風景を想像されるが、ここの「ヨシタ」の地名はアイヌ語<エミシ語>で一本の河が二つに分か れる分岐点をいい、実際、津原神社裏で吉田川と菱江川に分かれていた。この辺りは大きな洪水もあったが、土地が肥えて作物もよく育ったので「吉田」とも言ったと考えられる。
 文政13年(1830)の村明細帳によると、小祠は2ケ所にあり、「何神とも相知不申候」と記されているが、吉田川の堤防跡にある石造物(祠)これと同じモノが英田北小学校の北西の小山にある。両方とも川があふれたら村落を守るために堤防をきる場所である。だから、平素からムラの入り口を守る神、「塞の神」である。ご神体は、実は12個のきれいに洗われた河原の石で、江戸時代、文化文政の頃大水が出て12軒の人が吉田新家(字名)に移った人たちが二度と洪水が起こらないように「祠」をつくり以来お祭をしてこられたからである。文化文政の頃以来、実に200年近く続いているが、今年も8月12日にお祭をされていて、「祠」の草を刈り、お供えを供え12軒の人たちが集まって一斉に「かしわ手」を打って家内安全、村内平和を祈っておられた。また、塞の神は、「歯神さん」と呼ばれ歯痛を治す神としてもあがめられていた。上の写真の祠正面に小さな穴が開いているが、この穴に”抜けた歯”を入れて新しい丈夫な歯が生えてくることを祈った。
 右写真は、石造りの明神鳥居で文政13年の銘がある。
 この塞の神(道祖神)は、大きな自然に対して「祈る」ことで、自然を守り、自然に対して謙虚に生きようとしてきた人々の切ない願いが込められた民間信仰の典型のように思った。
 最寄り駅 近鉄花園駅 北東へ800メートル
 


  十三仏板碑西昌寺境内
   十三仏板碑西昌寺の本尊は元禄12年の銘のある美しい姿の阿弥陀如来だが、境内には慶長14年(1609)の銘のある十三仏板碑がある。近畿では珍しく上部が三角形で高さ100p巾55p砂岩に十三仏を二段(上段中央に一体、左右に各三体、下段に六体)に配している。
 十三仏は、初七日から三十三回忌に至るまで、十三回の供養、仏事に使われていた。初七日(不動明王)、二七日(釈迦如来)、三七日(文殊菩薩)、四七日(普賢菩薩)、五七日(地蔵菩薩)、六七日(弥勒菩薩)、七七日(薬師如来)、百ケ日(観世音菩薩)、一年(勢至菩薩)、三年(阿弥陀如来)、七年(阿閃如来)、一三年(大日如来)、三三年(虚空蔵菩薩)の順に仏(如来と菩薩)が配当され板碑に彫られている。
 川勝政太郎は、「室町時代の初め、極楽浄土信仰と地蔵尊信仰が結びついた」という。髪切の慈光寺裏山の十三仏は有名だが、市内に5基、生駒山を中心に大和、河内、摂津に密集しているというのも面白い。我々にとって身近な仏さんが彫られた十三仏板碑は、大別すると追善供養塔逆修作善塔に分けられる。逆修作善塔は建立者が生前の善行によって功徳を積み、まだ生きている内に自分やその家族の死後の安楽を願って造られたもので、造立の場所は寺院境内もあるが、道路の辻や見晴らしの良い場所など人目につきやすい場所に立てられたという。
 西昌寺の十三仏板碑は老いた者が生き残り、若い者の冥福を祈った逆修追善供養塔ではないかと考えられる。
   最寄り駅 近鉄花園駅 北東へ800メートル 西昌寺境内


  流れてきた子安地蔵尊(西昌寺境内
等身大の木造地蔵菩薩像 この地蔵菩薩像も作者、年代とも不詳だが、一本木造りで等身大の立派な像で彫りの深さや丁寧さから見て鎌倉中期の作品と考えられる貴重な地蔵菩薩だ。室町時代に洪水の後、上流から吉田川に流れてきて、この辺りに漂着した地蔵菩薩を一貫上人が地蔵堂を建てここに祀ったという言い伝えがある。実はこの話に付録があり、口伝によると、幾躰(3躰)か作られた像のうち、この像のお顔がふできで川へ流したところ、吉田辺りの川中から後光がさすのを見た人たちが「勿体ない」と拾い上げ、一時堤の上で丁寧に祀っていたが、もとの大和小泉の善隣寺へ返すことになった。しかし、河内吉田の人々の人情の温かさに心動かされたのか、しきりに「吉田に帰りたい」といわれて、そこで改めて大和小泉、矢田へ出向き貰い受け、爾来、この地に祀られているとのこと。(*江戸時代、吉田は大和小泉藩の領地)
 そのような言い伝えのある地蔵さんだが、霊験あらたかなお地蔵さんとして、地元の信仰が今も厚い。不思議なことに、黒いお顔から想像できないが目からは霊験あらたかな光が出ている。一度ご覧になるといいかと思う。
 地元の人によると親の代より何代も前からこの地域に地蔵講が組織されていたようで、代々地域ぐるみでこの地蔵菩薩を守り崇敬されてきた。日常的な世話や、月2回ご詠歌や地蔵盆でのお祭りなど生活の中に地蔵菩薩が生きており、子ども達にとって大変良い情操教育になっている。また、平成4年には立派なお堂も再建されており、地域の信仰心の篤さを実に物語っている。なお、この地蔵堂の前には役行者堂があり毎年若者を中心として大峰山へ修業に出かけている。
 この吉田は、我が子の健やかな成長を願うだけでなく村全体の平穏で豊かな暮らしを願う村落共同体的な雰囲気がまだまだ残る町だ。
 なお、西昌寺門前の角に道標がある。この道標はユニークな絵文字が使われており見る者の心が和み楽しくなる。
 近鉄奈良線 花園駅南東へ800m
 
 
吉田春日神社は、「ラグビーの守り神」
春日神社社殿春日明神本殿、二間社入母屋比翼造 
                  
 この辺りは市場(字名)といわれ、村の旧記によると、奈良の春日神社の四柱の神(アメノコヤネ神、、ヒメ神、フツノヌシ神、タケミカヅチ神)を勧請したとある。創立年不明だが、古くは「松の宮」と称し当地の先祖を神として祀った氏神社だった。本殿は江戸時代(享保5年、1720年)に建立されたもので、東面する「二間社入母屋比翼造」とする春日造で全国でも稀有な構造であり、桧皮葦の社殿二棟を渡り廊下でつなぎ彫刻、彩色の非凡さを併せ、1つの社殿に二柱の祭~を祀る相殿は珍しい形式であり貴重な建造ジャンボラグビー絵馬物である。昭和49年、市の有形文化財に指定されている。
 秋例大祭が毎年10月15、16日に行われており、15日には神酒献上の儀式ともいえる、農作物の豊かな穰りを神に感謝する「酒くらべの神事」があり、16日の夕刻には、各地域の自慢のだんじり(地車)太鼓台(ふとん太鼓)の宮入行事がある。
 注目すべきは高校ラグビーのメッカ、近鉄花園ラグビー場が近くにあることもあるが、祭神が「武人」の神、フツノヌシ大神、タケミカヅチ大神が祀られていることからかラガーの守護神となり「ラグビー神社」と呼ばれるようになってきた。社殿にはジャンボラグビー絵馬が奉納されている。また、初詣をかねて「必勝祈願」に参詣する高校、大学、社会人チームが多くなった。大会中には東大阪の企業グループがラグビーグッズを販売しているが、その中でも名物にもなっているのが「ラグビーお守り」である。
 最寄り駅 近鉄奈良線 花園駅 北東へ1000メートル 





                     郷土銘菓「河内 甚兵衛」包み紙
 郷土銘菓「河内 甚兵衛」
 中甚兵衛といえば、江戸時代の郷土の偉人。当時、付替前の大和川は水はけが悪く流れが運んでくる土砂が河床を上げ、大雨の度に堤防が決壊し河内一帯に洪水を引き起こしていた。洪水の被害を防ぐために立ち上がったのが今米村の庄屋、中甚兵衛。甚兵衛は、大和川の付替工事の必要性を多くの人達と共に江戸幕府や大坂町奉行所に粘り強く働きかけ実現させた。この郷土の偉人の名前を冠した和菓子が「河内 甚兵衛」。北海道・十勝産の高級小豆を粒餡にして、卵や小麦粉、蜂蜜で作った薄皮に包み込んだ饅頭だ。昭和61年に誕生したこの饅頭は中甚兵衛10代目による説明文がすり込まれた薄紙に包まれており、包装紙には旧大和川一帯の古地図が載っている。
 この饅頭そのものは、創案者花園創菓庵「松一」の店主が修業時代に作り上げていたもの。甘みを極力抑えた小豆本来の風味が生きた饅頭にぴったりのネーミングを考えていたとき、初めて店舗を構えたのが、旧吉田川の堤防に作られた花園商店街の一角。郷土の先覚者中甚兵衛の名が自然と脳裏に浮かんだとのこと。「大和川といえば中甚兵衛。」「中甚兵衛といえば大和川の付替工事。」子ども達もよく知っている郷土の偉人中甚兵衛を商標にと考えられたが「河内 甚兵衛」として登録された。
 焼き上げられた饅頭を賞味しながら、豊かな河内を作った先人の業績を偲ぶのも一興かと思う。
 店舗は、花園商店街と稲田、桜通りにある。
 近鉄奈良線 花園駅下車 北へ400メートル
 




 競馬場に建った近鉄花園ラグビー場
近鉄花園ラグビー場  
 ラグビーが日本に伝わったのは、明治32年(1899)に慶応の学生に指導したのが始まりで、関西にはその11年後の明治43年に京都の三高が始めてついで、同志社がこれに次いだ。
 ラグビー場開設には2説ある。1つは昭和3年(1928)、秩父宮殿下が関西を旅行中、車中で「この辺りにラグビー場を作ってはどうですか……」と話され翌年、もと競馬場であったこの地に造られた。
 他説は、昭和3年に、当時来阪された秩父宮殿下が、当時の大軌、現在の近鉄の社長やラグビー関係者にラグビー施設を作る計画はないかと話された。つまり、車中説と面会説である。
 当時の大阪毎日新聞には、「東洋に唯一のラグビー競技場、秩父宮さまのお言葉から、大軌沿線花園にできる。」と報道された。また、近鉄奈良線には、”運動場前”(現東花園駅)という駅も新設された。旧吉田川の堤防跡を利用して観覧席ができた。ラグビー場の周りは野原・畑で子ども達にとってラグビーの真似事をする大変良い遊び場だったようだ。
 戦争中は、軍事教練の場となり、また、グライダーの練習基地ともなり、スタンドを飾っていた鉄傘鉄類の拠出でなくなってしまったが、戦後、全国制覇を果たした近鉄ラグビー部の健闘もあって戦前を凌ぐ3万人収容できる競技場に変わり、全国高校ラガーのメッカ、「ラグビーの街、東大阪市」の誕生となった。なお、近鉄ラグビー部は現在「近鉄ライナーズ」と名を変え活躍中だ。
 ちなみに近畿日本鉄道の前身は大阪電気軌道(略称、ダイキ電車)といって、大正3年(1914)4月に上本町〜奈良間(路線距離30.6キロ)が開通している。開設されていた駅は、上本町、鶴橋、片江、深江、小阪、若江、瓢箪山、枚岡、石切、生駒、富雄、西大寺、奈良の13駅であった。開業当時、普通運賃は一区5銭で上本町・奈良間は片道6区間30銭、生駒までは4区間20銭だった。各駅停車で上本町・奈良間55分かかっていたが当時としては大変早かったようだ。
   近鉄奈良線 東花園駅下車北へ 1300m


 花園駅から近鉄花園ラグビー場までの石仏など
西昌寺前の道標 絵文字が愉快 最寄二尊仏(阿弥陀如来、地蔵尊)り駅 芭蕉供養塔(門人より)
  西昌寺前の道標  二 尊 仏(室町時代後期) 吉田墓地内
  芭蕉供養塔(台石に「門人」)
 甚弥の碑

 吉田墓地には、芭蕉供養塔と庄屋吉田思玄の墓がある。吉田思玄は、「農にして学を好み、家にて数千巻の書籍を蔵せし」「宅辺に書院を築き富景楼と名付け近隣の文化人来たれり」と大阪全志にあり。岩永憲一朗「富景楼をめぐる古文書と漢書」によると、出典は『河内名所図会』秋里籬島著をにありと、しかも片桐侯はこれを聞いて感激し和漢の書籍と田地二百石を贈ったという(享和元年(1801)3月の片桐候から吉田玄兵衛に与えた手紙による)。図書館の第一号である。なお、生駒山人が作った「富景楼十景」がある。この他、吉田思玄を訪ねた漢詩人、柘植葛成の「黄稲白綿途幾彎」がある。



 絵馬、極楽地獄絵(万延元年) 
  松原南地蔵尊(松原宿跡)と極楽地獄絵図
 
 今は道標一つが奈良街道の面影を残しているが、300数年前に作られた河内名所図会を見ると、当時の松原村は街道が東西に走り、道をはさんで家並みが細長く続いている。村の西はずれには川があり、堤に松林が描かれている。ひときわ目立った松林が松原の地名の由来と思われる。暗越奈良街道が東西に通っており、松原はこの街道の中で唯一の宿場があったところであった。380年程前、16軒の宿屋があったという。明暦年間(1655〜58)大坂町奉行曾我丹波守より、松原・水走両村に人馬継立を命ぜられ松原の宿場をおいたのがはじまり。
 町筋は英田北小の東の南北の道筋と北へ突き当たって東へ折れるL型の道筋だが、ここに峠屋など14〜16軒の旅籠屋があり、町筋の出入り口に松原南地蔵尊と東町地蔵尊(現在も祀られている)があった。
 松原南地蔵尊は、お体は少し小さいが、錫杖、光背が彫られた木彫りの地蔵菩薩立像で、線香台には安政4年の銘があるところから見て松原宿の昔からここに祀られていたようだ。また、同じ時代に建てられた東町の地蔵尊は石造の地蔵尊である。地蔵尊と併せて絵馬堂か地蔵堂に掲げられていたのか「極楽地獄絵」が残されているのも面白い話しだ。松原南地蔵尊の「極楽地獄絵」の額縁には、「松原宿」と書かれ万延元年奉納と記されている。
 
 近鉄奈良線 東花園駅北へ1500m(花園ラグビー場北へ100m)




 

  賽の神神社と謎のご神体石賽の神神社鳥居
 宝永元年(1704)の大和川付け替え後、旧吉田川の左岸の小高い堤上に祀られている。ご神体は自然石で道行く人を災難から守り、村人の安全、若い人の縁結びなど霊験あらたかな神といわれている。このご神体石は門外不出、非公開で社殿建立後は、誰も見ていないそうだ。
 bここが「艮(うしとら)」といわれてい.のは吉田春日神社の「艮」の方向に位置していることから。現在の社殿は昭和14年(1939)に村の人からの寄進があり「賽の神神社」として整備されている。以後、奉賛会が結成されて玉垣や参道の階段等が整備された。また、昭和61年(1995)今までの樽御輿の奉納運行から太鼓台の奉納運行が行われるようになり今現在に至っても大変な賑わいを見せている。祭礼日は、珍しく春に催され、3月4日とされているが、最近は、この日に近い第一日曜日。また、秋は、吉田春日神社の祭礼にあわせて太鼓台保存会、若中会による提灯奉納行事を行っているそうだ。
 この旧吉田川の堤防の上に祀られた賽の神神社。道祖~、いわゆる「幸神」は、地域の人々の守り神として洪水などの自然の猛威から身を守る神様として今日まで信仰を集めてきている。 ここ、賽の神神社は、地域の全ての人の篤い信仰心が伝わってくる神社だ。
 近鉄けいはんな線 吉田駅南へ 800m



 大津神社(式内社)と知られざる慈雲尊者自筆の扁額
 慈雲尊者自筆の扁額
 延喜式~名帳に記されている由緒深い神社だが、創建の年月は残念ながら分かっていない。祭~は大土神(おおすなのかみ)、津速比売(つはやひめー天児屋根命の乳母)といわれている。一説では、津速産霊神(つはやむすび)ともともいわれており、中臣氏は津速産霊命の三世孫天児屋根命より出ると新撰姓氏録にある。ここ古水走の豪族、水走氏は、大津神社、枚岡神社の神官であったことから考えて、中臣氏と縁のある神社であったと思われ。
 水走には、古水走と奈良街道沿いの町水走の二つの集落がある。式内社大津神社は古水走にある。集落の成り立ちが違っているためか、二つの村にはともに太鼓台があり、大津神社に宮入する。この地は河内湖沿岸地域の交通の要所であったとい平安時代から室町時代の集落遺跡である水走遺跡の存在と併せ中臣氏系豪族平岡連の後裔水走氏が河内の拠点として拓き発展したものと考えられる。水走氏は、中世には河内国及び大和国の一部を支配していたことで知られていた有力豪族。
 拝殿正面に架かっている扁額『大津神社』(裏書きに奉納講、座主名あり)は、善根寺春日神社の扁額『春日社』と同じく江戸時代の学僧で能筆家、慈雲尊者の筆といわれている。慈雲尊者の号は百不知童子、葛城山人、雙龍叟などを使われていたようで、この額の落款は確かに「雙龍叟」と認められる。
 また、祭神が女性(天児屋根命の乳母)ということで、子どもの健全な成長を願う人々の信仰を集めており、「子育ての神さん」と感じられた。境内は、大きな3本の楠や多くの樹木が残っており、さらに、遊具などもあり子どもたちや地域の多く人々が集うのに適当な広さもある。心地よい静かな佇まいの神社である。(スケッチは山田修さんの作品)
 近鉄けいはんな線 吉田駅南すぐ

 

 
澤田千佳良家住宅と先端技術
 澤田千香佳家住宅
 大津神社の西側に位置する澤田千佳良家住宅は、桁行6.5間、奥行3.5間の建物で、大和河内地方の特徴である4間取りである。土間の垂れ壁は煙返しといい、今でいう防煙垂れ壁のようなものがあり、梁、柱が古の趣を感じさせている。最初に建てられたのが元禄年間というから300年は経っている市の有形文化財住宅に住まいされている当主、澤田千佳良さんは、実は『真空蒸着』の技術の開発者でありことは、あまり知られていない。
 この道40年余り『真空蒸着』に関しては、国内最高と誰もが認める存在のようだ。現在宇宙を飛んでいる衛星のアンテナは、重量を抑えるためプラスチック作られている。そこに送信機能を持たせるため、アルミをミクロン単位の均一さでコーティングする。この匠の技が澤田さんの仕事。環境観測技術衛星『アディオスU』や『ふよう1号』など4個のアンテナ製作に関わってきた。
 歴史のある伝統的な古民家から最先端技術が世界に向けて発信されているなんて妙に楽しいものを感じた。




 
加納吉原地域