「歴史と街かと」
   
鴻池、加納、吉原、中新開地域
     
宇波神社 清水地蔵尊 加納川田墓地 栗原神社と親子獅子舞 吉原地蔵尊 西光寺 
    古箕輪八幡宮 包装資料館 旧盾津飛行場跡 鴻池新田会所・朝日社 諏訪神社 中甚兵衛顕彰碑
    ☆街歩きガイド 旧大和川水系のムラを歩こうpdf

 
 


  鴻池新田会所(国史跡・重要文化財)
表長屋門
 鴻池新田の管理事務所として、宝永4年(1707年)に完成した。今年は開設300年を迎えることになる。大和川付け替え工事後、時の大富豪本屋の内部鴻池家により新田開発・管理・運営のため建てられた会所は、当時の建築物がほぼそのまま現存しており、貴重な文化遺産であるため1976年(昭和51年)に国の史跡に指定され、また、1980年(昭和55年)に本屋、米蔵、文書蔵、本屋に付属する屋敷蔵など5棟の建物と棟札が重要文化財に指定されている。
 本屋の広壮な土間と高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して建ち並ぶ米蔵、道具蔵、米搗き場など民家建築とは大きく異なり、新田経営の中で生み出された造作が特徴だが、文書蔵が他の米蔵などに比べ床が高く、鴻池善右衛門宗利が証文、文書を大切にしていたことが分かる。会所の役割として年貢米の徴集、争いごとの調停などであるが、会所内に米蔵があるが「綿蔵」がない。
 ○ここで問題「綿作農家は年貢はどのように納めていたのだろうか。」
 
 
 また、新田会所としての特徴は、本屋、米蔵そして、氏神を祀る神社の三点セットだが、ここ朝日社(祭~、天照大~と鴻池善右衛門宗利の2柱)は現在、鴻池家によって祀られている。
 ○次の問題は、「『天照大~』を勧請した理由は何だろうか。」
 
他の蔵より床が随分と高い文書蔵 地名、「鴻池新田」の由来

 宝永元年(1704)の大和川の付け替え工事により「新開池」あたりに造られた新田は178町歩(170ヘクタール)に及び、翌年には121戸757名が移住している。この工事を請け負ったのが大阪の豪商、鴻池善右衛門宗利で地名は、開発者の鴻池新田と名付けられた。もともと鴻池家は、戦国時代の武将、山中鹿之助幸盛の子ども、新六幸元が摂州河辺郡鴻池村(今の伊丹市鴻池)に移住し、武士を捨て酒造りを生業としたことに始まり、屋号を村の名前「鴻池」にした。軟水を使った酒であったが当時困難であった濁り酒を清酒にすることに成功した。鴻池の清酒は評判良く、江戸で沢山売れた。当時は大坂が上方。江戸は下ることになる。「下らないもの」という言葉があるが、鴻池の酒は江戸に下ってもどんどん下っていき、はじめは馬の背に酒樽を載せて運んでいたが、あまりに大量に売れたので、船で運ぶようになったという。斯くして鴻池家の海運業が始まった。
 莫大な資産を蓄えた初代、鴻池善右衛門正成は天王寺屋五兵衛に学んだ両替商などを営み豪商となった。本市鴻池の地名は伊丹市鴻池に由来している。なお、6代目善右衛門幸行の時、「大切な米を酒にするのはもったいない」ということで、酒造業を廃業している。 
 
 朝日社

 新田開発が始まった宝永2年(1705)、天照大神を新田の氏神として勧請したことがおこりで、神明宮・神明社と呼ばれた。なお、この年はおかげ参りが発生した年であった。
 また、幕末までに新田開発の3代目善右衛門宗利が神として祀られ、この境内に開祖社が創建された。明治になり合祀され新庄と三島の氏神と合わせて産土神社と称された時期もあったが、産土神社が成和小学校向かいに遷座した後、再び神明社と呼ばれた。朝日社の呼称は先代鴻池当主によるものと聞いている。
 朝日社の特長として、秋祭り(9月16日)だけでなく4月16日に春祭りが行われている。この日は、開発記念日とも呼ばれている。農耕儀礼として祀るのでなく新田開発者、開祖神(宗利)を祀ることになる。神事を執り行うことで、地域共同体としての意識と結束を強め、相互信頼を深めることに繋がったことと思う。なお、朝日社は新田開発300年周年の2004年に改修されている。

朝日社境内の主な石造物' :eq@ek6mu
   墾田紀功碑 永仁四年の西院灯籠 謡曲「井筒」業平の井筒

 






 

 




  宇波神社とおかげ灯籠
宇波神社 宇波神社は字瓦口にあり、「延喜式神名帳」にのせられている古社で、祭神は、埴安姫命(はにやすひめみこと・土の神様)で、別名熊野と称されている。社名の起源も含め、古代より中世には、加納の地が周辺の湖沼地帯にはり出し、いち早く漁業、農業、水上交通の要所として繁栄してきた。現在は水分神社(みくまり)と吉野神社を合祀している。
 おかげ灯篭は江戸時代に盛んに行われた伊勢神宮参宮の記念物でほぼ60年毎に遷宮が行われる年の参宮は『おかげ年』といわれ平年より一層の御利益があると言われていたことから慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、享保3年(1718年)、享保8年(1723年)、明和3年(1771年)、文政13年(1830年)と計6回にわたり各地で集団でのおかげ参りが行われた。
 文政13年庚寅の年号のある加納の灯籠は、おかげ参りに参加した加納の人たちが、記念として常夜灯として立てたもの。
 ここ宇波神社には祭神、植安媛が難産の女の人を救った不思議な話が伝わっている。おかげ灯籠
 
加納(かんのう)の民話「預かった赤ん坊」 
 『妹のお里の出産を聞いて急いでいた加納村の源太は、おかげ灯籠の横で美しい女の人から可愛い寝顔の赤ん坊を預かるが、見とれている間に赤ん坊が重くなってくる。耐えきれないぐらい石のように重くなった後、一度にすうっと軽くなったときに女の人が疲れたような顔をして帰ってきた。妹が生んだ赤ん坊の顔が、先ほどの赤ん坊の顔とそっくりだったことに驚く。妹からお産の様子を聞いてさらに驚き、難産の末生まれた時刻が、預かった赤ん坊がすうっと軽くなった時刻と同じであったことに気づいたそうだ。』(民話研究家、西川増子さん)
 加納の村人が五穀豊穣を願う氏神さまは、孝元天皇の后で河内青玉繋(かけ)のむすめ植安媛命(はにやすひめのみこと)だといわれているが、氏子お里の難産を救ったのはその宇波神社の祭神、植安媛命、その人ではないかと今も信じられている。
 村の人たちの信仰心の篤さや敬う心の深さがこの民話を生み育てたのでしょう。

(宇波神社スケッチは山田修先生作)
 


 川から救い出された清水地蔵尊
清水地蔵尊
 加納の清水地蔵は、花崗岩の舟形石に半肉彫りされた高さ84センチメートルの立像で、彫りに粗雑さがみられ力強さもないところから、江戸時代初期の作かと思われる。昔から低湿地帯であった加納の守り神として村境に祀られていたが、度重なる洪水のため、いつの間にか川底深く埋まってしまった。江戸時代に村人が川浚えをして、この地蔵菩薩を掘りおこし地蔵堂を建てあらためて祀った。このような地蔵菩薩は加納の人たちに「堤所の地蔵さん」の名で親しまれ続けてきた。
 加納(かんのう)民話「堤所の地蔵さん」
 『ある年の五月、毎日続く梅雨の長雨のため、井路川は黒い濁流が音を立てて流れていた。豊吉さんは川の様子を見回りに来たとき、その濁流の中から射るような一筋の不思議な光を見たのです。光はまもなく濁流に消されたのですが、何故か心に残った。また、その年の8月の夜のことでした。村の与助さんが光の差した堤へさしかかった時、川の方から声がしたように思った。気のせいかと思ったが「助けて!」と含み声が聞こえてきた。
 また、秋風の吹く頃、同じ声を聞いた人がいた。続いて聞こえる不思議な光や声に村人は「キツネやタヌキの仕業か」「不思議なこっちゃ」と言う人があったが、一度川浚えをすることになった。
 村中総出で川浚えをしたところ、泥の中から1メートル程の石塊が出てきた。石の泥を取り除くと舟形石に彫られた地蔵尊が出てきた。清水地蔵と名付け、この地にお祀りすることにしたそうだ。その年は例年になく豊作で、村中喜びに湧いたそうだ。』(民話研究家、西川増子さん)
 毎年、加納に人たちは、8月24日の地蔵盆なると五穀豊穣と村人の無事安泰に感謝して、米、麦などの五穀を素材にした、干支や「豊作」の文字を細長い板の面に貼り付けて表現する一対の飾り物を供えていた。それは手の込んだ細かい細工で配色もよく見事なものだった。



  加納川田墓地と「キツネの恩返し」
  加納は、式内社宇波神社のある古くからの集落である。土地の古い人は「かのう」と言わず「かんの」と呼んでいるが、「加納」は文字通り、新しい土地を開発して農作物の収穫量を増やし、それに伴って年貢・租税を今まで以上に納めるようになった所と考えられている。そのような土地柄か、豊かな生活をめざすと共に、身の回りの自然への親しみ、身近な動物、キツネにまつわる民話が多く残されている。「キツネつり」「夜なきうどん」「キツネの恩返し」などがそうである。千年の前にこの地に移り住んだと言われる加納の人たちの墓は、吉田川右岸にあたる場所にあり当時は深い竹薮に囲まれ、クスノキやエノキも多く昼なお暗いところであった。 この加納(川田)墓地にまつわる墓キツネのお話を紹介したい。 
 加納(かんのう)「キツネの恩返し」のあらすじ
 *長田村のお医者さんの門を激しくたたく音に、車引きの友吉さんが目を覚ました。それは、芝村の小寺さんからのお使いで「若ごりょんさんが難産で苦しんでおられますねん。先生に、はよ診て貰いとうおますねん。どうか、お頼みもうしま」と必死な声に、急いで先生を人力車に乗せ、芝村をさしてひた走りに走った。まもなく見覚えのある小寺さんの門に着いた。友吉はくぐり戸を急いで入った行かれたお医者さんを見てほっとたばこを吹かして一休み着きました。一方、小寺さんの若ごりょんさんは大変な難産だった。でも有能なお医者さんは無事赤ん坊を取り上げられました。見送りを受けながら帰途につき、生駒の峰も白みかけていたころ、ふと後ろを振り返えると、今まであった立派な門が跡かたもなく消えていた。そこにはたくさんの石碑が早暁の薄明かりの中に浮かんでいた。「わしは、加納の墓キツネの赤ん坊を取り上げたのか」とお医者さんが愕然とした。
 その翌朝、戸の外に尾ひれもピンと張った大きなタイが一匹、竹かごにのって空を見上げていた。
「これは、きっとキツネの化けよったんにちがいない。こんどはだまされへんぞ」と友吉が丸かごをかぶせ正体を見てやろうとしたが、実はこのタイは本物だった。(民話研究家 西川増子さん)
 加納の民話にはキツネが多く登場する。殆どが村人をだまして楽しんでいる話だが、この「キツネの恩返し」は難産のキツネが我が子を助けるために医者をたぶらかして見事出産する目出度い話だ。しかもお礼に「タイ」とは人間の情に通じた出来過ぎたキツネだ。

 

 栗原神社栗原神社と「親子獅子舞」
 
栗原神社はもと梶原宮の称されて地域の氏神として崇敬されてきた。祭~は中臣雷大臣命でこの地は古くは中臣系栗原連、栗原勝(天児屋根命十一世孫、雷大臣之後)が居住していた歴史の古い地でもある。
 河内では江戸時代の中頃から稲刈りが終わった頃、伊勢の太神楽の影響を受けて地域ごとに獅子舞があり、秋祭りや、正月には神社に奉納し町内を練り歩き、各家々に門付けをして家内安全や五穀豊穣を願ってきた。
 ここ吉原地区でも先の戦争が始まるまで続いていたが、残念ながら途絶えていた。
 しかし、今から15年前、平成4年に町内のコミュニケーションをさらに深めようと、郷土芸能「獅子舞」の復活を地車保存会「昭和の会」の皆さんからの発案があり、自治会など地域の人々の協力で、見事「獅子舞」を復活させた。当時は各メディアにも取り上げられ話題にもなった。親と子の獅子頭
 吉原の獅子舞には、災難を除く「荒神払い」「角切りの舞」、五穀豊穣を祈願する「御幣踊り」「なまずの踊り」があり、伝統を受け継いでいる。
 また、獅子舞が復活して10年が経ち、子ども獅子が誕生しても良いのではと地域の方々の考えで、今から5年前の平成14年に2頭の子ども獅子を購入され全国的にも珍しい「親子獅子舞」の誕生となった。大人と子どもとのつながりや地域のまとまりにとって大変有意義なものになっており購入して良かったと獅子保存会長さんは語っておられた。
 半世紀ぶりに郷土芸能「獅子舞」を復活させ、親子のコミュニケーション、地域の人々、世代間の交流を図ってこられた吉原の人達に、このような伝統芸能を通じて「郷土」を素直に愛すること、地域のつながりの大切さをあらためて教えられた一日だった。
 なお、隣接する加納、川田の両地区にも伝統芸能「獅子舞」は現存している。
(スケッチは山田修先生作)



 吉原地蔵尊と元旦の祝い膳は「ぜんざい」のいわれ吉原地蔵尊
 吉原地蔵石仏は、『西光寺』というお寺の門脇にある、地蔵堂の中にあります。吉原地蔵石仏については、「昔近くの川底から引きあげられた」という、言い伝えがあるそうですが、定かではないようです。花崗岩の自然石に舟形光背を付け、蓮華座の上に立って、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵立像を厚肉彫りしたもの。市内で最も大きい石仏(総高2m、像高1.7m)で、河内地方でも一番ではないかといわれている。このような石仏は、鎌倉時代の元徳2年(1330年)の銘のある、阿弥陀如来像を刻んだ磨崖仏(奈良市田原)が知られている。この地蔵石仏には銘がないが、この石仏も室町時代初期の石造彫刻と考えられ、大阪府の有形重要文化財に指定されている。
  地蔵堂の前には、寛延3年(1750年)の銘のある地蔵常夜燈と安政5年(1858年)」の銘のある線香立ての基壇部分が残されている。
 ここ吉原ではお正月に雑煮でなくてぜんざいでお祝いをする家が多い。そのいわれは、地元の言い伝えによると、実はこの地蔵さんが盗まれことがあったそうで、享保12年(1727)、村人によって近くの川中にあった地蔵さんを引き上げ、元に戻された。それ以来、正月の祝い膳に関西では大変珍しいぜんざいを食べることが定着し、今では伝統的な行事になっている、ということ。
 今も、自治会のが中心となってお世話をされているが、この吉原地蔵尊への地域の人たちの信仰の篤さ、親しみが分かるいい話だ。

 


 江戸末期の典型的な民家、藤井家住宅              藤井家住宅
 藤井家は吉原の東端にあり、庄屋を務めた旧家である。住宅は、当家に残る資料(天保12年より続く萬覚帳)によると、文久2年(1862)9月に亡くなった弥五右ヱ門という人が建てたと推測される江戸末期の民家である。現在はトタンに覆われて見ることが出来ないが屋根は茅葺き。主家は、入母屋造り(上半分を切妻、下半分を寄棟にした複合形)桁行 9間(16.33メートル)梁行4間(7.2727メートル)身舎梁行(もやはりゆき)3間の食い違い4間(ま)取りと見られる。土間部分は、ウチニワの大黒柱から表方につき止め溝をもつ差鴨居、裏方に煙返し梁が架かっている。妻側(棟に対して直角に接する側面)は現在2部屋となっている。元はこの部分の表がナヤ、裏がカマヤとなっていた。居室部分は、土間境に幅一間のヒロシキ、その奥に式台ゲンカンを有する6畳のクチノマ(座敷)、その裏に6畳の台所と4畳の板間が並び、奥方の表に8畳のザシキ、その裏に8畳のナンドを配している。ナンドの裏に後年増築された奥座敷があった。市内幕末期農家の典型として、昭和51年市の民俗文化財に指定されている。
 現在はここで生活をされていないが、昭和の初めの頃の生活道具、医院をされて時代があったようで往診用の人力車や医療器具、道具や設備が残っており整備されれば良い民俗資料館になるものと思う。


 西光寺と木村重成公の遺児
西光寺  寺伝によると、近江源氏ゆかりの近江観音寺城佐々木左右衛門尉重綱が、若江城から始まった応仁の乱以後の戦国時代、落城とともに7人の武将と共にこの地に来た。吉原が七軒屋(九軒屋という説もある)ともいわれたのはこのことに由来している。重綱は藤井弥惣太と改め、蓮如上人に帰依し正善と号した。永正6年(1509)に方便法身尊像をいただき西光寺を開基した。寄棟造り・本瓦葺の本堂は江戸中期、延享4年(1747)鐘楼は享保18年(1733)に建てられ屋根などの修理もされたが当時のままの姿を残して現在に至っている。
 1615年5月。いわゆる大阪夏の陣「若江の戦い」が、霖雨の中、旧大和川と玉串川をはさんだ湿田で行われた。豊臣側木村長門守重成、長曽我部盛親9700が徳川側藤堂高虎、井伊直孝勢15000が南から攻め入ったのを迎え撃つ、戦いは双方で死者1400名という激しいものであった。その死者の中に豊臣秀頼の小姓、木村長門守重成がいた。木村重成は当年19才ともいわれ美しい若武者であったが、討ち死を覚悟した木村重成の毛髪から匂い立つお香の薫りに、首実検した徳川家康は、その見事さに「言葉を失った」と言われている。
 その木村重成は近江観音寺城、佐々木氏と縁があり、親戚であった藤井氏に以前に姉が身を寄せており、出陣直前、遺児・門十郎を預けている。その後、門十郎は藤井氏の養子となったと、本堂屋根裏の木箱に納められていた「古文書」記されているという。
 木村重成がなぜ大坂夏の陣において「若江」で戦ったのかが長年の疑問であったが、分かったような気がする。
 除夜の鐘は、鐘突きを希望する信者が鐘をつくので、108を越え、多いときで178ついたこともあったという。


  包装資料館ー藁、竹の皮、風呂敷からはじまったパッケージの歴史
 
展示・包装の歴史
東大阪には幾つかの「街かどのミュージアム」がある。
ここ鴻池の地に「つつむ」包装資料館(ザ・パック大阪包装資料館)がある。もともとは社員の研修に活用されていたもののようだが、今では国内1万点、海外の駐在員から送られてくるパッケージ1万点が集められている。
一企業のショールーム的な面もあるが、ここの特徴は風呂敷、巾着袋、竹の皮、藁など食品をつつみ保護してきた歴史から、商品流通の活発化とともに輸送に耐える強さをもったパッケージ、そして、内容物がわかりしかもより高級感や品質の良さを感じさせるパッケージへと変遷してきた過程が一見して分かるように展示されている。
 また、いつの時代も、美しいものへの憧れと、それを求め続ける願望は尽きることはないが、便利で美しい包装・パッケージから、地球環境への配慮・調和、バリアフリーへの配慮なども考えられる資料館になっている。
  包み紙、包装の歴史を知るは人間の暮らしぶりの変化を知ることにもなりよりよい生活を求めた人間の歴史がここにあった。話をしてくれた館長さんは今時珍しく知的で清楚で美的センス溢れる女性だった。まさしく企業を象徴するパッケージそのものである。
 包装資料館の場所は東鴻池にある。




 古箕輪八幡宮ー拝殿に明彩な絵馬
古箕輪八幡宮 
新開池に面していた古箕輪は水に縁のあるところ。古くは漁村(狛犬の台座の銘より)として、大和川付け替え後は農村として暮らしてきた。 鴻池新田が開発されて後、農業を主に営むようになった、しかし、悪水や干害に苦しんだようだ。この古箕輪八幡宮の東側にある長者橋の横に、各村からの井路が交差する高度な用水分岐の水門(藤五郎樋)が今も残っている。
 そのような地域の歴史的な変遷がよく分かる六郷井路(水路)の側に立つ古箕輪八幡宮を訪ねた。
 創建は不明だが本殿は一間社流造柿葺で江戸時代中期の建築とみられる。鳥居に寛保元年(1741)、拝殿前の灯籠に明和元年(1764)の銘があることから古箕輪八幡宮は新田開発以後に整備されたものと考えられる。また、鳥居横には天保2年(1831 )銘のある「おかげ灯籠」がある。
 古箕輪八幡宮で特筆すべき事は、拝殿に6枚の図柄がはっきりとした鮮やかな大絵馬が残されていること。元寇の戦い、神功皇后朝鮮出兵図、江戸時代の風俗図、天皇に将軍・御三家が供をした加茂明神参詣図、大江山の鬼神退治図などだが、いずれも幕末から明治にかけて奉納されたもののようだ。
 八幡宮の管理維持は地元自治会が担っており古箕輪地域には、古いものを大切にする心と大いなる自然や神への畏敬の念が感じられる良いところだ。

     大江山の鬼神退治図  天皇に将軍・御三家が供をした
       加茂明神参詣図



  盾津飛行場跡地 東大阪に残る数少ない戦争遺跡
盾津飛行場 盾津飛行場跡地は東大阪市にとって数少ない戦争の遺跡だ。1934年(昭和9)に完成し、第二次大戦の終戦とともに閉鎖されたのが盾津飛行場です。場所は現在の新庄・本庄、盾津中学校や機械団地、東大阪トラックターミナルあたり。三棟の格納庫と講堂、砂利道のような滑走路があり、木製の練習用飛行機が離着陸を繰り返していた。正式名称は「大阪陸軍飛行場」だが「盾津飛行場」の名で通っていた。
 満州事変などの当時の国際情勢の中、軍事目的として、旧盾津町の地に飛行場の建設が計画された。盾津中学校の東門すぐには「盾津飛行場跡地」の記念碑があり、そこには、『民間の寄付によって作られたもので、大阪の防空と民間のパイロットの養成を目的としていた』と記されている。しかし、実際は『お国のため』ということで反対の出来ない体制の中、地元の新庄、本庄を中心とする農家から農地を安く買い上げた『一人一艦撃沈』『非常時防空自警』」を掲げていたS氏が陸軍省に献納した。
[300坪=650円(当時の米価10s、1.6円)で買い上げられた。今の物価に換算すると1坪≒6,000円となる。小作人への補償は、地主の1/10であった。]
 飛行場は南西から北東の方向、生駒山に向けて滑走路が延びていた。大きさは、約33万u。当時の伊丹や八尾飛行場とほぼ同じ大きさだった。ちなみに今の関西国際空港は盾津飛行場の約25倍になるそうだ。
 1935年(昭和10)の新聞を見ると、飛行場は正式名称とは裏腹に、軍関係で使用されたことは少なく、むしろ民間のグライダー航空競技大会や訓練の記事が多く掲載されている。
 エピソードとして、飛行場の地盤が軟弱で、飛行機の車輪が地面にめり込んだことがあった。飛行場全体が草原だったため、生駒山を超えて盾津を見渡しても、どこが飛行場かわからず場外に不時着したこともあったと伝えられている。その反面、ここで訓練を受けた学生たちがのち特攻隊員として南の海に消えて行った悲しい話もある。盾津飛行場の格納庫で組み立てられていた飛行機は九九式練習用爆撃機「明星」(真珠湾攻撃で活躍した九九式艦上爆撃機の木製化版)で、盾津飛行場の北東にあった松下航空機で製作された後、飛行場の格納庫で最終組立が行われていたようだ。松下航空機での生産数は7機だった。なお、西隣の大阪練兵場は後に盾津飛行場の一部となり、無蓋掩体も設けられていた。
 盾津飛行場は終戦後の1947年(昭和22)、北側の一部が新設の盾津中学校の敷地になった。中学校の開校当初には、飛行機の格納庫や飛行機の残骸が残っていたそうで、その他の用地は1950年(昭和25)、払い下げが実施され、もとの農地に戻った。しかし、農耕には向かず一括して大阪府が買い上げトラックターミナル用地、機械団地となった。 

  

 諏訪連と諏訪神社諏訪神社鳥居
 諏訪神社は、古文書「氏神三社興立記」によると、享禄5年(天文元年1532年)、信濃国諏原の住人である諏訪連(すわのむらじ)の子孫がこの地に村を開き、本村守護のため諏訪大明神(建御名方神(大国主神の子、たけみなかたのかみ)・稲荷大明神・筑波大権現の三社を勧請したのが、創始であろうと伝えられている。
  現在の諏訪神社は、その中の諏訪大明神を祀る一社だけが残されている。本殿まだ当時の彩色が残る諏訪神社本殿は、一間社流造り柿(こけら)葺で、その規模にくらべて、江戸時代初頭に修理されているが、全体として、室町時代の古材がよく残されており、柱や梁などの部材が太いこと、また、当時の彩色が残っていることなど、室町時代末期の神社建築様式の特徴を残している。また、市域最古の神社建築として重要で、市の文化財に指定されている。
 なお、諏訪大明神は、「南宮大明神」とも呼ばれ、日本第一の「軍神」であり、「水の神」であり、鎌倉時代には日本第一の「風神」とされ、勇猛な神であり、開拓神であり、古くは狩猟農耕の神、今は産業・交通安全・縁結びの神として信仰されている。
 地域の人々が話されることは、荒れ地を開発し努力を重ね力を蓄え、自然や人々への感謝の気持ちでもって諏訪神社を建立した先人の心や誇りを子ども達に伝えたいということ。氏子の結束は堅く信仰心に篤く石碑に刻まれた「村人よ たとえ枝葉に別るとも 二度 根にかえりて ここに 会む」という言葉に「諏訪連」からの気概が感じられた。
 近鉄東大阪線 吉田駅 北西100メートル
  


 中甚兵衛顕彰碑中甚兵衛顕彰碑(今米公園内)と「大和川の川違え」
 この顕彰碑は、大正4年に中甚兵衛の大和川付け替え工事に対する功労に対し従五位が贈られたのを記念して、生地の旧春日神社跡に建立されたもの。
 大和川付け替え工事は、宝永元年(1704)年に行われており、大和川を石川の合流点から大阪湾まで真っ直ぐ西へ付け替えられた。
 大和川が付け替えられたのは、大きくは、当時の河内、特にこの辺りの地形の特徴によっている。今から6000年前、縄文海進といって地球が温かくなり海面が高くなっていた。そのころの河内平野は「河内湾」と呼ばれる海が広がっておった。その後、海面の低下や北の淀川、南の大和川より運ばれてきた土砂によって河内湾がやがて「河内潟」とよばれる干潟が河内湾縁辺に発達した。さらに今から2000年前には「河内湖」となり深野池、新開池と呼ばれた沼沢地は河内湖の名残としてあった。付け替え以前の大和川は大和盆地の水を集めて生駒山脈を横断し、柏原に出て石川と合流して河内平野を南東から北西に五本の指を広げたように水系を広げ大阪城の北で淀川に合流して大阪湾に注いでいた。そのような低地にあった河内は歴史を遡ってみても幾度となく洪水が襲っていたことが記されている。
 特に寛文6(1666)年から延宝2(1674)年にかけての洪水によって玉櫛川、吉田川、菱江川、深野池、新開池の堤防の30個所も決壊し大きな被害をもたらし完全 に天井川化した。以来、大和川流域の人たちは大雨のたびに大規模な洪水に苦しみ、江戸幕府に治水工事を願い出た。今米村の庄屋であった中甚兵衛さんもその中の一人で、「大和川の川違え」に大きな役割を果たした。明暦3(1657)年、甚兵衛が19歳の時、父九兵衛が他界したあと、父の遺志を受け継ぎ、大和川の付け替えを幕府に請願し続けた。幕府はこの請願には消極的であり河内平野の開拓と治水という中甚兵衛の考えが莫大な費用が必要ということもあって認めようとはしなかった。
 しかし、再三請願する中で、大坂東町奉行所の代官、万年長十カの進言もあって元禄16(1703)年、ついに幕府は大和川付替の命を下した。時に甚兵衛65歳。50年かけた悲願が実を結んだ。
 大和川の付け替え工事によって1060町(1町=約1ha)が開発されることとなり、幕府は地代金をとって新田開発と耕作の権利を与えた。川中新田、深野新田、鴻池新田などが開拓・開発され河内木綿の栽培も盛んになり河内は豊かな土地となった。以後、大雨の度に洪水にを恐れていた旧大和川流域の人々は、少しは安心して暮らすことが出来たようだ。しかし、新川流域の人々にとって、この付け替えは如何なものであったのだろうか。
 大和川の付け替えは、治水対策という従来考えられてきた側面と経済成長、幕府の財政安定優先の「新田開発」促進という側面があったといえる。
 近鉄東大阪線 吉田駅 北へ100メートル 今米公園、屋敷林がある。

長瀬・弥刀へ