歴 史 探 訪 ー1ー
       ー「壬申の乱」はこう読むー
蜻蛉の滝、宮滝、南北ライン・新羅の道と太陽の道そして、斎宮。
      




 
                                              


 トンボに似てない「蜻蛉の滝」             
蜻蛉の滝 もともと「清冷の滝」と称していたが「蜻蛉の滝」となったのは姿形が蜻蛉に似ているからでない。雄略が、あきつの(吉野離宮の対岸の御園の地)に行幸され、狩をされたとき、「大御呉床(おおみあぐら。脚の付いて高い座)に座していたが、虻が一匹飛んできて帝の腕にかみついた。すると蜻蛉が飛んできてその虻をくわえて飛び去った。雄略がこれを喜びこの地を蜻蛉野と称するようになった。それに因んでこの滝を蜻蛉の滝と言うようになった。
 吉野の阿岐豆野(あきつの)と蜻蛉島(大八州の異名)の国褒め。天皇を讃える頌辞
 そして、「倭」を阿岐豆野と言い、蜻蛉島(大八州の異名)と倭国全体を表すこととなった。このことは、実は雄略が当時の葛城氏との勢力争いに勝ち、大王として権力を確立した天皇を誉め讃える言葉として日本書紀に記述された。
 『み吉野のおむろが嶽に 猪鹿伏すと 誰ぞ 大前にまをす やすみしし わが大君の しし待つと 呉床に坐し白妙の 袖きそなふ 手腓に虻かきつき その虻を蜻蛉  はや昨ひ かくのごと 名に負はむと そらみつ 倭の国を蜻蛉島とふ』
             
 雄略と一言主
古事記(702年)に雄略が狩の途中、猪に出会う、雄略は、木に登り難を避ける。
「われは悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主 の大神なり」と。雄略は持ち物一切を献上した。まさに一言主は ワンフレーズで断罪した。しかし、日本書紀(720年)には「二人が連れ合って狩を楽しむ」対等の関係を記している。さらに、日本霊異記(822年)には修験道、役行者にこき使われる人足として記され、一言主は、その不満を役行者が天皇を倒そうとしていると訴える。それにより役行者が伊豆に流された。
 この逸話からは、雄略の土地の豪族葛城氏との関係が読める。


 宮滝ーこれが「滝」なのか
宮滝 大海人皇子が隠棲した吉野宮があった宮滝は、仏経ケ岳、釈迦ケ岳などが連なる山々の中にあって、吉野川に注ぎ込む支流で渓谷美豊かな所である。
 名前から「神社、行宮の前を流れる滝」というイメージが浮かぶが、実は滝でも何でもない。大きな岩によって作られた川幅が30メートルぐらいがあるが早瀬(急流)になっているところだ。旧跡吉野離宮が近くにあり、豊富な水量とその激しさと渓谷の美しさから宮滝と呼んだのだろう。確かに穏やかな宮滝は、落ち着い淡いブルーな水溜まりと透き通った水の流れを見せ、激しい宮滝は、その激しく跳ぶ水しぶきが描く造形美に感動する。
 「壬申の乱」はここからスタートしたと言うが………。

 


(解題) 「壬申の乱」はこう読む。(「壬申の乱」の読み方)   
      ー「壬申の乱」を解き明かす視点ー
672年の壬申の乱は日本史上、画期的な事件である。不改常典、父子相伝に背き武力を持って皇位を簒奪した大海人皇子は、伊勢神宮に天照大神を奉じ、また律令国家をつくり、そして古事記や日本書紀などを編纂する事業を始めた。さらには、初めて「神」と呼ばれた天皇であり国号を「日本」とした。  
 日本書紀の「天武紀」は大海人皇子サイドの「事実経過」が実に細かく記述されているが、唐の使者郭務 宗との太宰府での細かな対応や「鬼ノ城」など朝鮮式山城について記述などは大海人皇子にとって不都合な内容なのか記録にない。記述のない事柄にこの「壬申の乱」の真実が隠されているように思われる。以下の5つの視点について考えたい。



視点1 
「国際情勢と外交政策」

663年 白村江の戦 倭国・百済「唐・新羅」に負ける。
664年 太宰府に戦勝国の唐、朝散太夫郭務 宗、劉仁願が来る。(以後8年間に6回来倭)
    倭国に対して従属と新羅との戦いへの協力を求める。
     「天智三年夏五月の戊申の朔甲子に、百済の鎮将劉仁願、朝散太夫郭務 宗等を
     遣わして表函と献物とを進ず」(天智紀)
667年 天智天皇、大津に移る。多数の朝鮮式山城の築城。
(669年 河内鯨らを遣唐使(第5次)として派遣した。河内鯨、その後の消息不明)
671年11月 太宰府に唐・郭務 宗「2000名とともに船47隻に乗りて、
     倶に比知島(巨済島南西の比珍島か)に泊まりて、……」が来る。
     唐のみが「天子」であるという大義名分。二度と唐に対して敵対しないという
    「軍事制圧」体制の安定化。
671年12月3日 天智天皇が近江宮で崩御
672年5月30日 郭務 宗、唐へ引き上げる。
    ・甲冑弓矢を郭務 宗等に賜る。
     この日、郭務 宗等への賜物は、全部で[あしぎぬ]1673匹、布2852端・綿666斤。
672年6月24日 大海人皇子、吉野宮 を出立→「乱」勝利後、倭古京に戻る。
*675年 新羅の半島統一


 
◎外交政策 天智は遣唐使を、天武は遣新羅使を重視。(表)

7〜9世紀の日本(倭)からの使節
 使節名  回 数    年 代    備  考
 遣隋使
 
遣唐使

12
 607〜614
 630〜838
 対中国 合計14回
 遣新羅使 
 遣渤海使
31
15
 668〜779
 728〜811
  対朝鮮 合計46回
  新羅使、多数

 天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から使節団が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは唐の外圧に対して共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。
 
視点2 
「朝鮮式山城の築城」
 →当初対唐防衛ライン。後に対新羅防衛ラインか
 「乙巳の変」後、百済を援けた大和朝廷は、唐からの攻撃を防ぐために対馬から北九州,関門海峡,讃岐屋島,高安など、海陸の要衝の地に築城した。これが朝鮮式山城。
 天智天皇4年(665)太宰府南北の山地に山城、大野城・基肄城(きいじょう)を築いた。
 天智天皇6年(667)には対馬に金田城、肥後に鞠智城、長門・周防に石城山、吉備に大廻小廻山城(備前)、鬼ノ城(備中)、讃岐に屋島城を改築、西方から都に至る沿道を固めた。
 同9年に河内高安城を修築。これらの城郭は雄大な規模を持つ山城で外敵来襲の時には政庁・軍営は勿論、付近の一般住民も入れるほどの広さであったという。(「鬼ノ城」から7世紀後半頃の複数の高級硯「円面硯」の破片が出土。鬼ノ城の築城開始時期と最初の居住者については「歴史探訪3」に記述予定)なお、天武は「乱」勝利後、吉備太宰を置いている。
  
視点3 
新羅の道」と「太陽の道」の上に立つ齊宮(宮殿)
 
百済の亡命王族、官僚に処遇。→新羅系氏族の不満。そして古代朝鮮式山城築城と防人への動員に対する地方の不満
「新羅の道」とは白山比盗_社(加賀一宮)→美濃席田評、安八麿評→斎宮への東経136度37分の南北ライン。<白山比盗_社・祭神=菊理姫(白山比盗_・新羅系の神?)新羅から白山を目印に渡来>安八麿評には大海人皇子の湯沐邑(経済基盤規模は2000戸。湯沐邑令ー多臣品治 太安万侶の父(意富=多・太)、不破野上に行宮。西美濃でも一番西端の美濃国安八磨評。(現在の大垣市と安八郡の全域か)金生山に赤鉄鉱の鉱脈がある。壬申の乱に活躍した人物の多くが美濃出身、新羅系渡来人。地縁、身内同族意識。海人族、尾張氏、物部氏の勢力圏内。
 
「太陽の道」とは 
 北緯34度32分の線上に箸墓古墳を中心に東西200qにわたって古代史につながる遺跡、史跡が並んでいることを奈良の写真家、小川光三氏が偶然発見。「太陽の道」には、淡路の伊勢久留麻神社、長谷寺、三輪山、田原本の多神社、広陵の百済神社、斎宮・竹神社・祓戸、神島の八代神社が並ぶ。<竹神社・竹連 タケ=「聖」なる。祭神=長白羽神、正殿、千木=伊勢神宮と同じ造り。 <齊王の森・斎王宮址の碑 ー竹神社ー祓戸ー神島(八代神社) 一直線上にある(太陽の道)>  
 
1/10に復元された斎宮斎王の森

 








斎宮の造立=「壬申の乱」を解明する鍵

 
「ヤマト」王朝、
   
出雲族・物部氏と新羅系渡来人との交差点
  

視点4 
 「壬申の乱」後のヤマトの動きから
 @「壬申の乱」後の論功行賞
  賞
 朴井(物部)連雄君 内大紫贈位 功封100戸 中功
 身毛君広    功封80戸 中功
 村国連男依   外小紫贈位 功封120戸 716年に息子、志我麻呂に功田10町
 尾張連大隅   従五位上贈位 716年に息子、稲置に功田40町
 和珥部臣君手  直大壱贈位 716年に息子、大石に功田8町
  以上が物部、尾張氏縁の氏族。もとは饒速日尊を遠祖としている。
 紀臣阿閉麻呂 大紫贈位 伊賀の国司に
  不可解のこと
    *大伴連吹負への褒賞が軽いこと
    *小子部鉗鉤が自害したこと
  
  罰 大友皇子側への処罰が軽い→国内の安定が主なねらいか
  ○死罪は8人 右大臣中臣連金など
  ○流罪    左大臣蘇我臣赤兄、蘇我臣果安(自決)の子。
        大納言巨勢臣比等、右大臣中臣連金の子。
    *物部連麻呂は大友皇子の最期を見届ける→石上朝臣に改姓。左大臣まで登りつめる。  
 
 A「国」としての支配体制、支配イデオロギーの浸透、徹底。王権の正当性の追求。
   ・国号 倭→日本に
    (*遣唐留学生、井真成の墓誌に「国は日本を号す」開元22年734年亡くなる。
     また、高句麗僧道顕の「日本世記」は天武朝には書かれていた)、
   ・称号 大王→天皇に(*1998年飛鳥池遺跡からの木簡出土)、
   ・都  大津京→倭古京に(飛鳥浄御原宮)
   ・「古事記」「日本書紀」(*712〜720年)の編纂

   ・大嘗祭、新嘗祭の祝詞
   ・伊勢神宮
    斎宮の造立。大来皇女を制度上、最初の斎王に
    (南船の文化では太陽は女性。天照大神ー倭迹迹日百襲姫命ー持統天皇への系譜)
    伊勢神宮を度会の磯宮に。天孫族・天照大神を追い遣りながら奉る。
      <シンボル「箸墓」(「箸墓陵の戦い」に勝利)>
   ・「持統」に取り入った藤原 不比等の登場
     例 藤原氏の氏神、春日大社の祭神、漢国神社の祭神からみた「神々」の整理
   ・漢国神社(かんごう) 推古天皇元年(593)勅命により創建
    不比等が、祭~ 大物主神 →園神(そのかみ)国の神として敬う。
               大己貴神と少彦名神を勧請→韓神(からかみ)渡来の神とした。
   ・「神日本磐余彦天皇の陵」の所在が不明
     天孫降臨神話を利用しながら、出雲族・物部氏、新羅系渡来人を体制内に。

 B諸氏族・豪族連立王朝→中央集権、天皇制国家へ
 A 律令制と良賤制の実施。→「大宝律令」(701年)によって確立
 ○評制→郡制など、 諸制度の制定、確立
 ○どこまでも「浄」くて神聖でなければならない「天武」
  「天下大解除」 奴卑=賤民へ「穢れ」を一身に(良賤制による身分差別)
  「殺生禁断令」「衣服令」
  「貴・賤」「浄・穢」「尊・卑」の二項対立的思想が国家祭祀、法制により具体化。
 B 東国政策
 ○不破の関など3つの関を整備
 「天武」は、安八摩郡の湯沐邑の民衆をはじめ美濃の兵士の動員と尾張、伊勢の兵士、これらを中心に体制を整え、大友皇子方に対して勝利した。
 「天武」後の「天智」側の課題は、いかに反乱者を畿外勢力と結合させないようにするかということであった。また、「持統」になって不破の関を拡充している。
   →新羅 からの使者の入国規制している。
   
 C「古代日本」の枠組みがほぼ完成した702年、文武天皇によって遣唐使が再開され、栗田真人を派遣して唐との国交を回復している。一方、高句麗遺民の一部は698年、中国東北に渤海国を建国した。その後、渤海は新羅とは対立を続けるも唐からは冊封を受ける。日本は新羅との関係が悪化する中で、遣渤海使などで交流を深めている。

<結語>
以上の視点をつぶさに検討したとき、「壬申の乱」は従前、額田王を巡る「天智」との軋轢による戦いとか、大友皇子との皇位争奪戦と見られてきた。
 しかし、この「壬申の乱」は、もう少し複雑で、吉野宮滝、吉野宮に隠棲していた大海人皇子が、近江・大友皇子側の先制攻撃に対して「然るに今、已むこと獲ずして、禍を承けむ。何にぞ黙して身を亡さむや」と「やむなく戦った」と日本書紀は書き、大友皇子側は挙兵準備が不十分で杜撰であったので負けたと書く。矛盾のある記述だ。大海人皇子が天智の遺志、不許常典、父子相伝に背き、皇位簒奪したことを正当化する「理由」は明快に説明されていない。
 それでは、なぜ、大海人皇子は「壬申の乱」に打って出たのか。
 白村江での大敗後の混乱の中で「天智」は、如何にして倭国を立て直し、唐・新羅から守るかということに全力を傾注していた。各地に点在していた朝鮮式山城を堅固な山城に改築した。天智死後、大友皇子は天智陵造営に農民などを徴用していた。一方、大海人皇子は、筑紫率(大宰)栗隈王を通じ、唐からの使者郭務 宗との対応、捕虜の引き渡しなど戦後処理に奔走していた。また、国内の新羅系氏族の連携、協力関係をつくることで、恭順の姿勢を示しながら唐を牽制した。このことが百済系氏族、息長氏、大友氏との関係の深い大友皇子と鋭く対立することとなった。
 「戦い」そのものは、大海人皇子が単なる大友皇子に対する批判勢力に対して迎合した戦いではなかった。当時の緊迫した国際情勢下において、白村江の敗戦処理(多くの新羅系氏族も戦争に参加)と、外交政策を巡る対立の中で、底流にあった新羅系氏族と百済系氏族との確執と中央に不満を持つ東国勢力を利用、そして、朝廷の武器庫(金生山)を握る大海人皇子が用意周到に計画した「皇位簒奪」の短期決戦を意図した万全な戦いであったといえる。 
 中央集権国家を実現しようとする大海人皇子の意欲と戦術・戦略の差がこの戦いを決定したといえる。斯くして「天武」によって律令制による「天皇制中央集権国家」が誕生した。


(以上、無断転載を禁じる)