2007年度の歴史探訪、歴史講座内容一覧 |
第1回
4月16日(月) |
難波宮 ー仁徳の宮は何処に
難波宮跡資料展示室→大阪歴史博物館→時の鐘→坐摩神社→八軒屋・船着場跡(徒歩)
説明、解説 大阪府文化財センター学芸員さん
東大阪文化財を学ぶ会
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当日は25名の参加があり、学芸員さんの丁寧な説明もあり、楽しく学ぶことができ充実した見学会だった。孝徳天皇が蘇我氏勢力の影響から離れるため創られたという前期難波宮跡をたどり、聖武天皇の後期難波宮の出土品・重圏文軒丸瓦を手に持ってその重さと時代を感じることが出来た。また、歴史博物館での地下遺構の見学は遺跡保存の一面を知り感動した。熊野街道の出発地八軒屋船着場跡に立ち当時の往還に思いを馳せた。 |
第2回
5月25日(金) |
蘇我氏ルーツ徹底研究の旅
蘇我氏の出自とその実態に迫り、創られた歴史のからくりを解く旅を企画しました。)
東大阪ー美原ー橿原ー甘樫丘東麓遺跡ー同展望台ー飛鳥寺ー板蓋宮跡ー石舞台古墳ー栢森の網掛ー橿原考古学研究所附属博物館(昼食、各自持参の弁当)ー入鹿神社(小網町)ー瑞花院(飯高町)ー子部神社−宗我都比古神社(真菅駅)ー橿原ー美原ー東大阪
解説 入鹿神社 氏子総代
吉川 淳一さん
東大阪文化財を学ぶ会 |
当日は、大雨でしたが参加の26名は楽しく有意義に学ぶことができました。
25日は大雨の中ながら楽しい一日でした。車中の昼食も初めてのことながら味わいがありました。今まで騒がしかった車中が食べ始めると急に静かになったのがおかしかった。歴史博物館は時間不足で何を見たのか忘れてしまい残念。あすか歌祭文、よかったな。蘇我氏を倒して最大の利益者は鎌足、それから奈良、平安とものすごいその時代に振り回されて憂き目を負わされるのは名もなき庶民層。その一人の自分を情けなく感じています。(A)
「蘇我氏研究の旅」は栢森の「勧請縄」が最高の収穫でした。何にでも参加してみることだとつくづく思いました。(B) |
第3回
6月19日(火) |
知られざる「吉備」をさぐる
ー鬼ノ城5世紀築城説を追うー
独自の文化を築いていた古代吉備には、弥生後期のヤマトの古墳に影響を与えた特殊器台、特殊壺。前方後円墳では全国で4番目の規模の造山古墳(全長305メートル)9番目の作山古墳(286メートル)があり、朝鮮式山城の中でも全国屈指の鬼ノ城があります。鬼ノ城は総面積30万平方メートルにも及び吉備津彦命の温羅退治の伝説の地でもありますが、その築城の時期や目的はまだ解明されていません。弥生時代から独自の文化を持っていた「吉備」が古墳時代においても力が衰えなかったのは先進的な製鉄技術と製塩と言われています。
今回は、鬼ノ城の5世紀築城説から見える古代吉備を探ります。
また、吉備津神社の鳴釜神事(釜の鳴る音で吉凶を占う)、現在修築中の本殿屋根を見学します。
東大阪ー東大阪北ICー近畿自動車道ー中国道ー岡山総社ICー鬼ノ城ー食堂「桃太郎」(昼食)ー吉備津神社、鳴釜神事、本殿屋根修築工事ー高松城祉ー東大阪へ
解説 東大阪文化財を学ぶ会
伊ケ崎 淑彦 品川 清 南 光弘 |
心配した雨も一滴も降らず、さわやかな天候のもと鬼ノ城、吉備津神社、高松城祉の見学できました。バスの中での講師の皆さんの「吉備王国」の5世紀〜7世紀の話しは、「記・紀」を見直しきっかけとなるだろうと思う。(B) |
第4回
9月29日(土)
歴史講演会 |
『日本書紀の謎を解く』
講 師 京都産業大学 文学部教授 森 博 達 先生
日本の歴史、特に古代史研究において20世紀後半の大きな発見といわれているのが、埴原和郎先生の同時代比較において、農耕民族が4倍の人口増をみている事実の発見であり、森 博達先生の日本書紀の音韻調査にもとづいて、述作者に漢人、倭人の2系統があることを発見したことです。この研究は、今まで誰も出来なかった音韻学と文章学からの分析で、古代史研究、日本書紀研究に大きな影響を与えました。
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第5回
10月21日(日) |
マイクロバスで行く「太子伝説地
隠された「蘇我氏」をテーマに例会を企画してきた。5月には蘇我氏の本拠地と思われる曽我川のほとりを歩き入鹿神社(小網町)や宗我都比古神社、そして甘樫丘東麓遺跡を訪ね、「日本書紀」の記述とは異なる「つつましい」蘇我氏の生活ぶりを散見してきた。今回は、もう一つの本拠地「河内の飛鳥」と「上の太子」を訪ねた。
聖徳太子伝説地、例えば叡福寺、用明天皇陵、推古天皇陵、西方院などは、本貫地と思われる曽我川、宗我都比古神社に近く、古代の幹線道路、物流の大動脈であった竹内街道の沿線であった。実際に訪れてみて分かることだが、蘇我氏の命脈と聖徳太子伝説は一体であり、作られた伝説に秘められた各時代の人の思惑が感じられた。親鸞が太子伝説を利用したと思われる布教活動などがいい例である。教団の維持、発展に聖人、太子が必要であったと思われる。このように、太子伝説を必要とした人たちが宗教的な目的追求、あるいは政治的な目的達成のためにいろいろな人達が、長い時間をかけて「伝説」受け継ぎ内容を膨らしていったのではと考えられた。ただ、太子信仰を否定するものではない。
「太子」に関わる歴史的な事実の究明はしたいものだ。「伝説」が成立する舞台装置のスケールが大きくなかなか真実に届かないかも知れないが……。 |
第6回
11月4日(日) |
旧大和川水系のムラを歩こう
JR鴻池新田駅→鴻池新田会所・朝日社・竹永稲荷→宇波神社→おかげ灯籠(河内街道)→古箕輪八幡神社→栗原神社→長者橋・藤五郎樋→吉原地蔵→諏訪神社→川中邸屋敷林→中甚兵衛顕彰碑→近鉄東大阪線吉田駅 |
第7回
2月24日(日)
歴史講演会 |
「天武紀『壬申の乱』を読み解く」「
〜「太陽の道」と「新羅の道」から〜
講 師 南 光弘(東大阪文化財を学ぶ会)
紀、第28巻は壬申の乱が全て。日本書紀編集者にとっては、壬申の乱は現代史であり、勝者の記録でもある。戦乱に参加した者の資料、聞き取りによって編述されているが、そこには勿論編纂を命じた天武の意図・目的があったと思われる。その意図・目的とは。
東西の聖なる「太陽の道」と南北ライン「新羅の道」の交点に建つ「斎の宮」の成り立ちから、その意図を探る。
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