東大阪 石切、孔舎衙地域
神話と信仰の街・石切、枚岡 豊かな歴史と文化の街・日下
石切劔箭神社(上の社・登美霊社)、北川小路地蔵堂(辻子谷)
石切四光地蔵堂(爪切り地蔵尊、四光地蔵尊)、千手寺ーー、辻子谷の水車郷
日下貝塚跡(国指定史跡)、郷学校跡(正法寺・大龍寺)、今に残す黄檗伽藍 大龍寺、丹波神社、「盾津の浜」の碑
☆町歩きガイド 石切駅、日下貝塚遺跡、旧河澄邸、善根寺春日神社、楯津浜碑、鯨骨出土地、日下リージョンセンターなどpdf
辻子谷の水車郷
生駒の中腹、辻子谷は江戸時代より水車を利用した漢方薬を主にした製薬業、製粉業が盛んだった。辻子谷の水車郷と呼ばれた頃は音川に沿って谷間に44台が稼働していた。昭和40年代に殆どが消えてしまった水車を復元しようとされたのは、水車が回り蛍が飛び交う昭和30年代の辻子谷の原風景を是非とも子どもたち、孫達に残したいという思いを持った昭楠会の人たちだった。2年前に復元された水車は直径約6メートルと立派なものだ。水車の横には、カワニナや蛍の幼虫が飼育されている。他所からの移入でなく音川の蛍を育てているそうだ。この夏(平成18年)は、蛍の群舞とごとごとと水車が回る原風景が実現していることだろう。今、ミニ水車小屋の計画も建てられ、多くの人の訪れを待っている辻子谷です。
最寄り駅は、近鉄奈良線 石切駅下車、東へ徒歩20分。
日下貝塚跡(国指定史跡)
地球温暖化への警鐘か
JA横の道路沿いに立っている「日下貝塚の碑」を目当てに訪れる人の多くが失望されて帰られる。日下貝塚遺跡は実は、この碑より30メートル程登った所にある。今は、畑地となっているがその所有者である井上さん宅の土間に約2500年前の30〜35才位の女性の頭骨も含め磨製石器、サヌカイトの石鏃、突端文のある縄文土器がなどの出土品が陳列されていることはあまり知られていない。出土品の多くは埋蔵文化財センターに保管されているが、発掘調査前の家人が掘られた品を許可を得て保管されたきたようだ。民具の見学と共に近くの小学校の児童が大昔や少し前の時代の暮らしを学びに訪れるそうだ。昭和47年に国史跡に指定されているが、いまだ整備はできていない。
女性の頭骨ー縄文人からのメッセージ
日下貝塚からの出土品を見ると、約3000年前の自然を畏れ、平和に助け合って共存していた縄文人の暮らしを想像することができる。しかし、このまま地球温暖化が加速すれば海抜25メートルの高さにあるこの遺跡が海抜2〜3メートル当時と同じ「風景」を見せることになるのでは、と恐れる。この日下貝塚遺跡から<平和>と<環境>を考えたいものだ。
最寄り駅 近鉄奈良線 石切駅下車 北西へ1500メートル
近代学校教育の魁 正法寺における郷学校設立の経緯pdf(河内の郷土文化サークルセンター『あしたづ』第22号所収)
明治政府は、明治5(1872)年8月、明治維新後廃藩置県、徴兵令、地租改正などの富国強兵策の一つとして「学制」を公布し国民教育を推し進めた。学制に先立って河州河内郡日下村、芝村、植附村、神並村、喜里川村、六万寺村の6ケ村連名の「郷学校開設」の申請が堺県に出され許可されている。明治4年5月には、正法寺(現存せず)において教師2名、生徒数百名ほどでスタートした。当時、「郷学校」を開設した村、地域は殆どなく、この6ケ村住民の子どもたちの教育への願いと期待の大きさと共に、文化の高さが伺える。明治5年7月には、生徒数も増え近くの大龍寺に移っている。
最寄り駅 近鉄奈良線石切駅下車、北へ800メートル
今に残す黄檗伽藍 大龍寺
当山の縁起は推古6年(598)聖徳太子が自作の観音像を安置、創建したと伝わる。古くは厳松寺(げんしょうじ)と称していた。南北朝の時代には後醍醐天皇より、若干の寺田が寄進され、足利尊氏や足利義満よりも寄進を受けるなどした。応仁の乱の戦火で堂宇が焼失しその後再興されたが、大坂夏の陣で再び烏有に帰した。
江戸時代の河内名所図会にも載っている黄檗伽藍の趣を今に残している大龍寺の白木和尚さんを訪ねた。山門の扁額には「瑞雲山」とあり、門をくぐると生駒山を背にした仏殿が目に入る。現在の伽藍は江戸時代に泰宗元雄禅師が大坂の商人天王寺屋を壇越として再興されたもので4万uもの敷地にゆったりと建てられている。棟札からは黄檗山萬福寺大工棟梁秋篠兵庫が携わったことが分かり、伽藍の中心をなす仏殿は元禄13年(1700)その南にある斎堂は元禄8年(1695)、総門は仏殿と同じ元禄13年に建てられたことが記されている。黄檗伽藍をよく残し、萬福寺大工が関与した貴重な遺構であり、開山堂を含めた4棟が市の文化財に指定されている。伽藍の北側の墓地には、上田秋成が日下に隠棲したとき世話した正方寺の尼僧唯心尼の墓がある。白木和尚さんの話から、禅寺での日々の暮らしや修行の様子を聞かせていただいた。今の学校教育に話が及び人間が人間たりえるためにあれもこれも大事ということでなく、必要な内容にもっと焦点をあてることが大切という指摘は同感。
最寄り駅 近鉄奈良線石切駅下車、北へ800メートル
実在の人物を祀る丹波神社
日下の人々から「丹波さん」と親しまれている「丹波神社」は、祠の前に石の鳥居があり、いかにも村の社らしい。祠にある墓碑にある「平朝臣古祐」と称したこの人、曾我丹波守古祐は大阪西町奉行で2000石取りの旗本。寛永11年(1634)から万治元年まで25年間在勤した。その間、日下村の領主として以下のような数々の善政を行ったと伝えられている。
@社の南にある御所ケ池を改修し、用水を確保し旱害を無くした。
A樋の伏替え、堤の上置、腹付の土砂止めの松苗の植林などをご入用普請として実施。
B風流の人でもあり、川澄邸の棲鶴楼庭園、鳴鶴園と呼ばれる旧森家の庭を造る。
明暦4年、万治元年(1658)に没したがその徳を慕い神として尊敬する村人らにより、御所ケ池の岡の上に墓を作りその霊位を神と崇めて奉斎された。今もって曾我丹波守古祐の威徳を偲び、地元の人たちに大切にされ続けている。丹波神社を訪れたその日も、日下の自治会の人たちが境内を掃除されていた。
境内には大人一人でもなかなか持ちきれない力石があった。稲の収穫、豊作を祝う秋祭りには曾我丹波守を偲び楽しく多くの人が集い、力自慢大会もあったことでしょう。
最寄り駅 近鉄奈良線石切駅下車、北へ600メートル
「盾津の浜」の碑と「神武天皇」
孔舎衙小学校を生駒よりに4、50メートル上がったところに「盾津の浜」の碑がある。
日本書紀に「神武記」に東征のとき、長髄彦との孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで、「神武」の兄、五瀬命(イツセノミコト)の肘に流れ矢が当たり、それ以上前進することができなく退却を余儀なくされ、「そこで草香の津までに戻り、盾を並べ、声を揃えて勇ましく雄誥(おたけび)をした。<雄誥、これを鳥多鶏糜(ヲタケビ)という> このため、あらためてその津(元の名は、草香邑青雲白肩の津)に名づけて盾津という。いま蓼津といっているのは、これが訛ったのである。」とある。また、「茅渟の海=河内湾、傷ついた五瀬命の血を洗い流したことから血塗りの海が訛り転化し茅渟の海というようになった。」と、盾津と茅渟の由来が書かれている。
海抜20メートルほどの新しい住宅地の中に立派な石組みの壇の上に「盾津の浜の碑」が立っている。戦前は大切にされただろうが、現在は子どもの遊び場のようになっている。
ここがおよそ2000年前「神武」が10年の年月をかけて日向より筑紫、吉備を経てこの河内に上陸しようとした所とは、想像に難い。すぐ近くから古代、河内湾に迷い込んだ鯨の骨が出土していることや日下貝塚が目の前にあることを考えると2000〜2500年前この辺りは海岸であったことは事実のようだが。
弥生人の象徴としての神武が「青山をめぐらす東方の地」(大和)をめざし、 上陸しようとしたが、日下坂で土着(縄文人)の統領である長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい迎撃を受け、一時撤退したということだが、神武は、「日の神の子孫である我々が日の出の方角に攻め込んだのがまずかった。」と深く後悔したというが、地形的にも当然、長髄彦側が有利だったことは明白だ。なお、石切劔箭神社に神武社が祀られており、ご神体は「神武」が武運を占うために空高く蹴り上げたという大岩だ。また、五瀬命が血を洗い流したという「龍の口霊泉」が近くにある。さらに、「神武」が利あらず船の梶をなくし漂揺したという伝説が残る「梶無神社」が南に下った六万寺に鎮座している。
最寄り駅 近鉄バス 孔舎衙小学校前下車 東へ約400メートル上がる