美旗古墳群・馬塚
美旗古墳群・馬塚 近鉄大阪線美旗駅周辺に美旗古墳群がある。国の史跡に指定されている美旗古墳群は、4世紀末から6世紀前半にかけて一世代一墳的に築造された五基の前方後円墳・帆立貝形古墳を中心として、それに小規模古墳が伴ったものである。築造の基盤は名張でなく伊賀であったと思われるが、年代順に見ると殿塚古墳、女良塚古墳、毘沙門塚古墳、馬塚古墳、貴人塚古墳となる県下最大規模を誇る古墳群である。中でも、写真の馬塚は全長約142メートルの前方後円墳である。上野の御墓山古墳に次いで県内第二位の規模だが、くびれ部に造り出しがあり、後円部よりも前方部端の幅が大きく、よく発達した前方部であるが幅の広さの割には低短で女郎塚古墳ほどではないが帆立貝形をしている。後円部上には盗掘抗がみられ、墳丘全体に葺石や円筒埴輪片が見られる。被葬者は伊賀全域の首長権をもつ伊賀氏か名張氏といわれている。殿塚古墳の陪塚のわき塚1号墳に優秀な武器類が副葬されている。このことは、この地方に卓越した軍事力をもった豪族の存在を示している。
 また、名張川左岸の自然堤防上に立地する夏見の下川原遺跡は後期縄文遺跡で東日本柄鏡形住居の形態を持った竪穴式住居跡が発掘されている。この種の住居としては西限といわれている。


 田原本(糸井神社)と名張(福田神社)にある観阿弥「創座」の地
    ーポイントは「泰氏」の存在ー
 結崎の「観世発祥之地」碑観阿弥小波田の「観阿弥創座之地」碑創座の碑が名張小波田、福田神社跡美波多神社に合祀、祭神大物主命、菊理媛命・貴女白山)にある。また、奈良の田原本にも観世発祥の碑がある。碑にはどちらも生年を元弘3(1333)年としているが、歴史家の多くは大和出身説を採っている。その説とは、多武峰で活動していた山田猿楽に縁があり、その演技者であった美濃太夫の養子の三男と伝えられ、田原本の結崎座を拠点に活躍した(吉田東吾氏)。という。父は、伊賀国阿蘓田の豪族、服部次郎左右衛門元成、母は河内玉櫛庄の橘入道正遠の女との三男に生まれる。(観阿弥の母と楠正成とは姉弟関係)。ついで観阿弥の子世阿弥が1363年(正平18)年に生まれる。このころに観阿弥が妻の出生地である名張市小波田に猿楽座を建てたという説である。その後観阿弥は、大和の結崎に移りここで結崎座(後の観世座)を名乗ったとされている。(久保文夫氏)
 世阿弥の申楽談義に『面のこと。この座の翁は弥勒打なり。伊賀小波田にて座をたて初められしとき、伊賀にて尋ね出したててまつりし面なり。』とあることや、また、『風姿花伝』に「夫、申楽延年の事態、その源をたずねるに、或いは仏在所より起こり、或いは神代より伝わるといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力、及びがたし。近頃此の方人のもてあそぶ所は、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せ、且つ天下安全のため且つは諸人快楽のため、六十六番遊宴を成て、申楽と号せしより、代々の人、風月の景を仮て此の遊びの中だちとせり。其後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春・日吉の神職たり。仍和州・江州の輩両社の神事【従ふ】事、今に盛なり」(日本思想体系「世阿弥禅竹)とあり、観世家は秦氏の教えを引き継いで代々発展させ能を大成させた。 観阿弥は服部姓を名乗り、世阿弥は秦姓を名乗っていたことから、秦氏が多く居住していた伊賀小波田が「創座之地」であり、秦氏と縁のある人を頼って大和猿楽の結崎に移り「結崎座」を立ち上げここで能楽を大成させたと考えられる山の神・注連縄。よって「創座の碑」「発祥の碑」の二つの碑は、ほぼ史実にあっていると言える。
 山の神
 右の写真は、「観阿弥創座の碑」のある福田神社址に「山の神」を祀っている小さな祠の注連縄。神域の山と里を分ける結界を表している。昔は、それぞれの「山の神」があり春になると神様がおりてきて、野の畑や田んぼを見守り、秋の収穫した後、また山に帰っていく。昔は春と秋の年2回お祭をしていましたが、今は秋だけになっているようだ。山の神は女性と言われているがその理由は定かでない。人々にとって「畏怖される」存在としてあったのだろう。


 百地三太夫屋敷(竜口)
百地屋敷百地三太夫屋敷の内部 伊賀の「忍び」、三大上忍とは、服部半蔵、藤林長門守そして、百地三太夫をいい、「賊禁秘誠談」によると、百地三太夫は石川五右衛門の師匠となっている。
 百地三太夫の名は史実には見いだせないが、全くの創作といえない。それは、三太夫が生まれ育ったという竜口が伊賀猿楽の本拠地で、屋敷の南側にある白山神社の棟札には十人の太夫衆の名があり「太夫」の名が多いことから言える。 また、竜口は大和と伊賀があり、元々一つの集落でK田の悪党で有名な大江一族だ。元々興福寺・東大寺領であった伊賀は、守護大名や戦国大名の勢力が及ばなかった。東大寺支配がゆるんだ戦国時代は、狭い地域に260〜270の国人領主が割拠するようになり、戦いは情報量と質の差(「忍び」の発達)が勢力の維持発展を左右するようになった。百地三太夫の支配した山間の竜口は峡谷赤目四十八滝に近く「忍び」の技を磨くのに適しており、勢力を温存するのに都合が良かった。26百地丹波守三太夫供養塔0〜270の国人領主が、伊賀国惣一揆といわれる一種の自治共和制をとり物事を話し合いで決めていた。その中で、リーダー格であった百地三太夫は竜口を南北にまたぐ城山に砦を構え南伊賀一帯を支配し、北伊賀は、藤林長門守が支配していたという。
 訪れた築400年の百地屋敷は、柱組みは昔のままのようだが壁や障子扉は付け替えられているようだ。忍者屋敷のような特別な仕掛けはない。「忍」の仕事は外に出てする仕事。また、忍者装束を着て仕事をするわけではない。
 奥の間に甲冑があったが、一家に一つで、戦いには主人が着用し、家の者が同道して行く場合は、普段着で出かけたようだ。また、甲冑を換えることはなかったそうだ。紋所が違っていれば見方に殺されてしまう。敵方の紋所をしっかりと覚えて戦に出向くことが当たり前になっていた。
 


 大江一族と杉谷神社 

 祭~は天之穂日命など十~。鎌倉初期には黒田荘で最も有力な神社で平安時代末から鎌倉時代にかけて大屋戸を本拠とした黒田の代表的悪党・大江一族の氏神であった。また、楠正成と縁がある河内玉櫛荘在地の山口八カが奉納した国指定重要文化財「紙本著色北野天神縁起」がある。
 ここ黒田は東大寺の板縄杣が置かれていたところ。板縄杣は、東大寺の建物の修理木材を調達するところで朝廷から土地を所有することを許されていた。
 奈良に都があったころ、木材を調達するといえば、このあたりだった。板縄杣で伐採された木は、名張川から木津川に流されて東大寺に運ばれていた。木津というのは木の港という意味で名づけられた地名で、名張の板縄杣とは関係が深い。水路として使われていた名張川は、上流に青蓮寺湖というダム湖があり、今は筏を流すほどの水は流れていない。
 板縄杣が東大寺の大荘園・黒田荘になり木材を調達するための杣地が農作物を作る田畑に変わり荘園になっていった。社寺は杣地の外まで自領の目印として標識を立てた。その結果伊賀は、東大寺や興福寺など大寺院の私有の荘園が激増していったようだ。これでは、国司への納税は減る一方となる。国司側は社寺の立てた荘園の境界を示す標識を抜き捨てる行為にでた。それに対して、黒田荘の住人は抜かれた標識をまた立てる。そんな抗争が百年も続いたが、結局は黒田の荘園の勝ちとなり、長い戦で、黒田の荘民は戦術や武力を貯えることになった。この黒田荘を守っていた実力者が大江一族で、百地三太夫など百地一族の祖先ということになる。


  服部半蔵と花垣神社(予野)

花垣神社  服部一族の氏神神社。半蔵同族で藤堂藩城代家老を代々勤めた采女家もこの地の出身で、再三、大壇上として花垣神社の筆頭頭屋になっている。また、八重桜が有名で松尾芭蕉の句碑『一里はみな花守の子孫かな』がある。近くの千賀地城跡に「服部半蔵故郷塔」が残っている。
 芭蕉は、正保元年(1644年)、藤堂藩の城下町であった伊賀上野において伊賀の柘植(つげ)出身の無足人であった松尾与左衛門と、伊賀の喰代(ほおじろ)の百地氏の出の母との間に生まれている。無足人と言うのは、一種の郷士のことで、苗字帯刀を許された一応は武士であるが、仕えている主君からの録は貰わず、平時は農業を営み、戦時だけ槍を担いで出かけて行くといった、ちょうど戦国時代の兵農未分離状況下の土豪、すなわち、地侍といえる。
 芭蕉は、幼名を金作と言い、10歳代の終わり頃から、ここ予野出身の伊賀上野城城代家老、藤堂采女一族の、藤堂新七郎(歴代新七郎を名乗る)の嗣子、藤堂良忠に仕えたと言われている。この藤堂采女は、もともとは伊賀忍者の上忍(じょうにん、頭目)だった保田采女で徳川家康が、「幕府の先鋒、特恩家」と呼んで重用した藤堂藩藩主藤堂高虎が抜擢し、苗字を与えて城代家老に据えたと言われており、藤堂新七郎家も、忍法の印可を受けた家柄だったそうで、その家に仕えた芭蕉が、何らかの形で忍者としての役割を背負わされていたとしても、それは極く当然のことだと言える。
 そして、芭蕉が俳諧の道に踏み込んだのも、この藤堂良忠の影響を受けたからだとも言われ、それは、良忠が北村季吟の門下生で、蝉吟と言う号を持つた俳人であったから間違い無いと言われている。


 百地砦、式部塚(喰代)
  百地丹波の城跡で、永保寺裏の青雲寺に隣接しており、青雲寺がある所に館跡があったと考えられる。忍者が修業したという丸形池と呼ばれる堀跡も残り、喰代地域の城としては大きく要害堅固だった。天正伊賀の乱の最後の決戦地、名張柏原城で南伊賀衆とともに戦ったのは喰代百地の先祖が大江一族であったからだと考えられる。喰代百地の家来に藤堂藩伊賀者、田中安之丞、長井又左右衛門の名があるので上忍には間違いない。
 式部塚ー別名「樒塚」、石川五右衛門と遊女式部が登場する物語もあるが真偽の程は定かでない。しかし、自分の夫や恋人の悪縁を断ち切る神として地元の人には信じられており、塚には人知れず訪れる人が多いのか、多数の鋏やカミソリが今も供えられいる。
 

 龍門一揆と吉宗寄進の灯籠
山口神社と吉宗寄進の灯籠 江戸時代の農民闘争である、一揆は逃散、越訴、強訴など形をとったが何れの場合も犠牲者、処罰者がでる。首謀者が判明しないようにした唐傘連判状などは窮余の一策でもある。この龍門一揆は、年も押し詰まった文政元年12月15日に実行されている。年貢の納め時が過ぎ、過酷な仕打ち(検見取から定免制)に耐えかねての一揆であった。代官所が襲われ、農民と役人双方に多くの犠牲者を出した一揆でもある。特に一揆側は細峠又兵衛はじめ死罪四名、三名所払い、牢死四名という犠牲を払っている。今は、代官所跡と一揆を歌い込んだ「龍門子守歌」が残るのみである。なお、この一揆勢が集合した山口神社には、8代将軍徳川吉宗寄進の灯籠が昔のままの姿で境内にある。 なぜ、吉宗はここに寄進したのだろうか。



 『壬申の乱』と隠(名張)
 672年の壬申の乱は日本史上、画期的な事件である。不改常典、父子相伝に背き武力を持って皇位を簒奪した大海人皇子は伊勢神宮に天照大神を奉じ、また律令国家をつくり、そして古事記や日本書紀など歴史を編纂する事業を始めた。さらには、初めて「神」と呼ばれた天皇であり国号を「日本」とした。  
 日本書紀の「天武紀」は大海人皇子サイドの「事実経過」が実に細かく記述されているが、「東国」勢力、特に新羅系渡来人との連携・関係が欠落している。大海人皇子の戦いは、単なる大友皇子に対する批判勢力への迎合(ポピュリズム)ではなく、当時のヤマトの底流にあった新羅系と百済系との確執と中央に不満を持つ東国勢力を利用した戦いであったといえる。
 大海人皇子が吉野で密かに挙兵し、美濃国不破関に向かう途中、夜半に隠りに着く。隠りの駅家を焼き払い「天皇、東国に入ります。」と告げる。戦いに勝った大海人皇子は、3ヶ月後に倭古京に帰りるが、その前夜、隠りに一泊している。往復とも夏見あたりを通り、横河(名張川)を渡ったと思われる。天武天皇にとって出陣と凱旋の地、隠りは終生忘れられなかったのではと思われる。この
おきつもの隠(名張から壬申の乱を解き明かしたい。
 
1.隠、伊賀を駆け抜ける大海人皇子
  ○吉野宮(宮滝付近)一菟田の吾城一大宇陀町付近一-大野(室生村大野)一隠評一矢川ー丈六ー 
    相楽(長屋)ー中村ー(隠駅家・瀬古口か)ー横河(名張川)ー夏見一坊垣ー芝出ー莉萩野
    (上野市付近)一積殖(伊賀町拓植)一桑名ー野上(関が原町)
  ○大友皇子の母は、伊賀采女、宅子娘
    ー大彦命の後裔、伊賀臣か→宅子娘の墓は鳴塚古墳(前方後円墳37b)鳳凰寺(現藥師寺)
   *当時采女は、大和4人 伊賀1人 伊勢3人 吉備2人 山城1人
   *「畿内」東の境界は、名墾・河。
   名墾・河 「わが夫子はいづく行くらむ 沖津藻の隠りの山を今日か越ゆらん」
   紀伊・兄山(紀ノ川中流伊都郡) 
         「これやこの 大和にしてはわが恋ふる 紀路にありとふ名に負ふ背の山」
   赤石・櫛淵 「燈火の明石大門に入る日にか 漕ぎ別れなむ 家にあたり見ず」
   近江・狭々波の合坂山       
         「木綿畳手向けの山を今日越えて いづれの野辺に廬せむわれ」
   *伊勢の鈴鹿の関、美濃の不破の関、越前の愛発の関→固関  大王霊を守る
  
大海人皇子にとって渡来職能集団を掌握していた名張氏の動静が大いなる気がかり。
  蘇我氏、東漢氏(百済系)秦氏との関係

 

2.美濃・湯沐邑、不破野上の行宮をめざす
  湯沐邑は皇后や皇太子に私的に与えられた土地。  規模は2000戸。 
  湯沐邑令ー多臣品治 
   太安万侶の父(意富=多・太)
  西美濃でも一番西端の美濃国安八磨評。(現在の大垣市と安八郡の全域か)
  金生山に赤鉄鉱の鉱脈が露出していた。
   地表面から3、40センチ掘ると、幅が40メートル、高さが7、8メートル。
   長さが100〜200メートルにも及ぶ大鉱脈があった。
   鉄の含有量が非常に高く、60数パーセントという純度で、非常に品位の高い鉄。 
   *湯沐邑は武器庫であった。
   *南宮神社、伊冨岐神社(不破郡垂井町)がある。伊福部連は鋳銅技術、銅鐸の出土地と合致。
    他に、安八磨評には、春日臣 物部連、服織連などの氏族が。

3.「壬申の乱」と主な人物
   *当時の伊勢湾は物部王国
  壬申の乱に活躍した人物の多くが美濃出身、新羅系渡来人。地縁、身内同族意識
  身毛君広        美濃関市。舎人
  村国連男依       美濃各務原市鵜沼地区。舎人
  尾張大隅        私邸を行宮として提供した。(軍資金の提供も行った)。大海氏の同族
  和珥部臣君手     舎人。尾張氏の海部氏の系統
  朴井(物部)連雄君  舎人。美濃で大友皇子の徴兵活動を目撃、急報する。
  大伴連吹負       倭古京を制圧
  民直大火        高市皇子とともに積殖山口に
  三宅連石床       天日槍の後裔、伊勢国司 軍兵500 鈴鹿で合流
  三輪君子首       大物主神を始祖・美濃の三輪氏
  紀臣阿閉麻呂     東道将軍
  阿部普勢臣御主人  キトラ古墳の被葬者か(直木孝次郎氏)
  小子部鉗鉤       尾張で徴発した2万の兵士を率いる←天智の山陵造営のために徴発
                尾張大隅らに説得されるー古い同族関係をネタに

4.「壬申の乱」と天候
  横河(名張川)を越えんとするとき6/24 
        「将に横河に及らんとすると、幅十丈余りの黒雲有り、親から式とりて………」
  6/27 野上一帯に雷雨。「天神地祗、朕を扶けたまはば雷なり雨ふること息めぬ」
          はたして 雷雨はやんだ。

 
 7/2  「神風」に助けられた高市皇子の活躍
       ……行く鳥のあらそふ間に渡会の斎の宮ゆ神風にい吹き惑はし天雲を日に目 も見せず
          常闇に 覆ひ給ひて 定めてし    「万葉集巻2・199」柿本人麿の長歌
          伊勢よりの風 東南東より西北西に向かう風 台風に近い風が吹いていた

5.「壬申の乱」後の天武の動き
 @天皇、伊勢神宮・斎宮、国号「日本」の三点セットー「神」としての存在
 A世情の動揺
   律令制度の導入、良賎制の成立は権力の必要不可欠な政策課題
      天下大解除(681年) 年号「朱鳥」 飛鳥淨御原宮、
      八色の姓(やくさのかばね)ー真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置
 B処罰
  ○畿内の隠評(名張)が東国(伊賀)の名張に。
   天武13(684)年の「八色の姓」に「名張臣」が見えない。
  ○死罪は8人 右大臣中臣連金など
  ○流罪
   左大臣蘇我臣赤兄、蘇我臣果安(自決)の子。
   大納言巨勢臣比等、右大臣中臣連金の子。
    謎は、小子部鉗鉤が自害したこと。また実在しなかった人物か

6.東国政策
  ○不破の関の整備
    大海人皇子は、安八摩評の湯沐邑の民衆をはじめ美濃の兵士の動員と尾張、伊勢の兵士、
    これらを中心に体制を整え、大友皇子方に対して勝利した。
    「天武」後の「天智」側ー持統、藤原不比等の課題は、反乱者を畿外勢力と結合させないこと。
    「乱」後、「持統」になって不破の関を拡充している。
  ○夏見廃寺ー黄金の廃寺に秘められた謎ー  
    東国の鎮護を祈願か。南面の伽藍。南西方向に飛鳥浄御原宮、藤原宮を望む


 
夏見廃寺黄金の廃寺に秘められた謎を解く

  夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定される。夏見廃寺展示館には、金堂の復元やせん仏をはじめ、出土品が展示されている。
  醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女、最初斉宮なり、725(神亀2)年を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられている。

(解題) なぜ大伽藍、夏見廃寺は建立されたか
       ー黄金の廃寺に秘められた謎ー
 686年 大津皇子 24歳 自決
 694年 このころの夏見廃寺は65メートル四方の掘立柱の柵に囲まれた寺域に金堂に
      黄金に輝くせん仏の壁と2 、3の建物があった。
      ー甲午(694)年銘の多尊せん仏、複弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土(川原寺式軒瓦
      ー大海人皇子との関連)。持統天皇が藤原京に遷都した年。
 701年 大来皇女 41歳で死去
 725年 大来皇女、父天武天皇の供養のために昌福寺を建てると伝える(藥師寺縁起)
 743年 夏見廃寺の塔、講堂が作られる。僧坊を含めた大伽藍完成。
      南面の伽藍。南西方向に飛鳥浄御原宮、藤原宮を望む。

 
A説
 この場所は、吉野を出た大海人皇子が夜半に名張に着き、『紀』に「天皇此の横河を渡りたる北岸に在り。隠駅家 (中村か)を焚きて、東国に入ります」と告げ、一行が名張川にさしかかり、夏見あたりでにわかに天候の異変があったという。「横河(名張川)に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて占ひて日く『天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか』とのたまふ。」と。勝利した大海人皇子が3ヶ月後に飛鳥に帰るが、その前夜に名張に一泊している。往復とも夏見あたりを通り、名張川を渡ったと思われる。天武天皇にとって出陣と凱旋の地は、持統にとっても思い出の土地。大来皇女の名を借りて持統が亡き「天武」を偲んで「昌福寺」を建立した。

 
B説
 大来皇女が謀反の罪により処刑された弟、大津皇子が眠る二上山を望む地に建立した。
 「薬師寺縁起」にある「大来皇女、神亀2(725)年昌福寺を建立」という記述に基づく説だが、大来皇女は701年に41歳で死んだ、とされている。死後24年経て建立とはどういうことだろうか。発掘調査から夏見廃寺では金堂、塔、講堂で異なる基準尺が使われており、数次にわたって塔堂が建設されたと考えられている。また約65m四方の掘立柱の塀跡と、方一町(約100m四方)の築地塀の痕跡が見つかっており、大来皇女存命中にまず、金堂と2〜3の建物がある質素な伽藍が作られ、725年に金堂の他、大きな講堂と塔そして僧達の暮らした僧坊などの建物群をもつ「昌福寺」の伽藍が落慶したとも考えることができる。

 
C説
 「天智系天皇(聖武)」が他の国分寺、国分尼寺と同じように東国の鎮護を祈願。さらに、東国政策の拠点として建立した。という説。
 
 
私説
 大来皇女と大津皇子の関係を見る夏見廃寺伽藍復元図
   ◎伊勢斎宮大来皇女が大津皇子を見送った歌2首
    我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし
    二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ
   ◎二上山を見ての歌
     うつそみの人なるわれや明日よりは二上山を弟世 とわが見む
    磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに
       弟世=兄弟に用いるが背子と共に恋人や夫に対して使う
      
   ◎神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
    見まく欲(ほ)り我(わ)がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
   
 大津皇子夏目廃寺記念館の復元された黄金のせん仏
  身体が大きく逞しく、品があって人間の器が大きく深い。凛々しい男らしい容貌。漢詩をよくし武を愛し節を屈して士をを礼した。人が多く集まった。
  草壁皇子と石川郎女(大名児)を取り合う
  あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに  大津皇子
  大名児を彼方野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや      草壁皇子
 

 大来皇女には両親である天武、持統についての思慕、追悼を表す歌が万葉集に残されていない。どちらかと言えば、大来皇女の大津皇子を慕う強い感情が二上山を望む微高地の男山の地に建立したと考える。天武亡き後、天智につながる元明天皇、元正天皇が大津皇子、大来皇女の霊を沈め、平城京の安穏を祈願して金色に輝くせん仏のある大伽藍に建て直したのではと考える。  
 夏見廃寺は如何なる理由によって建立されたのか。どちらにしても、隠りの地に黄金に輝く立派な大伽藍が存在した事実は、この地の豊かさ、文化の高さを物語っている。なお、この時期、黄金のせん仏伽藍は4寺のみ。




          

歴 史 探 訪 ー2ー
   知られざる隠り(名張)
 観阿弥創座の地、百地三太夫屋敷、花垣神社、杉谷神社、
大来皇女と夏見廃寺<
龍門一揆と吉宗寄進の灯籠