地 名 |
い わ れ |
史跡 な ど |
種別 |
池島 |
周りの水田の中に浮かぶ集落を「池の島」とよばれいた。その島に中世には城があり「城内」「大門」「南口」など地名が残っている。南北朝の頃は楠正行の南朝側についたようで、その頃に城があった。野鳥の森、条里制の遺構が残っていることで有名。
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池島神社 |
地形 |
石切 |
今も参詣者が絶えない2000年の歴史を誇る石切劔箭神社からつけられた地名。「石おも切る剣と矢」ということで「デンボ(はれもの、癌)」を治す霊験あらたかな神社として全国的に有名。饒速日尊縁の地で、もともと軍事氏族物部氏の一族保積氏の氏神だったところから優れた武器の持つ霊力を祀ったものと考えられる。「武士」を「もののふ」というのはここかに由来している。「石切」の名そのものは、エミシ語で「イシキルイ」(彼の大いなる脚)長い臑を持つ男ナガスネ彦(進藤治氏)に由来している。
地名、石切は案外新しく、昭和25年、枚岡市政になってから。江戸時代は芝、神並、芝神並、植付と別れ、明治22年合併して大戸村(おおえむら)となる。なお、古代は大戸郷と呼ばれていた。
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石切劔箭神社 |
史実 |
孔舎衙 |
「クサカ」はエミシ語で船着き場を表している(進藤治氏)という。日本書紀には「草香邑青雲白肩之津」という表現。神武の「孔舎衙坂の戦い」、「日下の直越え道」
古事記」雄略記(418〜479)の条に、「日下江の入り江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも」とある。
「クサカ」に日下を当てたのは饒速日尊が天磐船から虚空(そら)見つヤマト国を見下ろしたことからヒノモトとも読める「日下」をあてたと考えられる。孔舎衙は音韻から当てたのかどうか不明。
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盾津の浜の碑
日下の原始蓮 |
地形
史実 |
四条町
五条町 |
四条町は近鉄瓢箪山駅南側、五条町は枚岡駅の少し南側、線路の東側。明治の中頃まで四条村、五条村と呼ばれていた。四条村は四条、上四条、南四条、瓢箪山、神田、御幸、末広、若草の各町の区域を含んでいた。五条村は、五条、客坊、河内、喜里川、旭、昭和、桜、本町の各町を含む。四条村と五条村は隣り合わせで古代律令制度の中で作られた条里制の名残。
条里制は六町幅で東西・南北を区画する土地割り制度。四条村、五条村は河内国河内郡に属しており、歴史的価値の高い地名。
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条里制、地割図 |
史実 |
喜里川
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もと「切川」と書いた。生駒の急斜面を一気に流れ下る谷川の水は恩智川に注ぐ。大雨の度に洪水の危険にさらされていた所から切川の名が付いた。この切川を美しい文字に替えたのは切川村の村長だった中西重孝だった。文政3年(1820)5月いつものような洪水で恩智川が氾濫した。度重なる水害が無くなることを願って切川を「喜里川」と改めた。重孝の文学的な教養と郷土愛が偲ばれる。
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中西家住宅 |
地形
新語 |
枚岡 |
「ヒラオカ」はエミシ語で「崖に住む所」。平岡、枚岡の漢字を当てたのは、河内一の宮、元春日といわれている枚岡神社の社名による。枚岡神社は、中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、神津嶽の頂に祖神の天児屋根命を祀ったのに始まると伝えられている。神津嶽の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。中臣氏の一族平岡連の氏神として信仰された。白雉2年(650)平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。神津嶽山頂には現在も奥宮がある。
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枚岡神社 |
地形
史実 |
玉串 |
近鉄奈良線、河内花園駅から、東花園駅の南側は中世は玉櫛(串)荘といわれていた。玉串のいわれは、津原神社の旧称、玉櫛明神からきている。枚岡神社との繋がりも深く中臣氏の神事、詔戸言(祝詞)を奉上する玉串に由来がある。津原神社の祭~、天玉櫛彦命、天玉櫛姫命、天児屋根命、天忍雲根神はいずれも饒速日尊が生駒に降臨したときに従った神。
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津原神社 |
史実 |
花園 |
近世において津原神社周辺は市場村花園辻とよばれていた。そのいわれは、神社の周りに桜を多く植えられたことによる。当時は「桜の園」であったようだ。なお、字名に「花屋敷」がある。
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情景 |
額田 |
額田の地名は古代氏族額田氏がここに住んでいたことによる。
生駒山麓に「額田神社」と呼ばれる神社があった。祭神は、応神天皇の第一皇子の額田大仲日子命。明治5年10月に枚岡神社の末社天神地祗社へ近在の多数の神社と合わせて合祀された。もと境内には、式部位子従六位下額田首皆人を祀っていた小祠、それと聖武天皇の宝祚の長久を祈るために明経博士額田首千足が詔を奉じて天照大日靈尊・天児屋根神・八幡大神を祀ったと伝わる棟高明神祠があったが、合祀の際に同時に廃祀された。立花町の旧鎮座地には建物が建ち、何も残されていません。立花町の一画、五曜星の紋章を掲げて妙見像を祀る「鎮宅霊符神社」の社殿の北側には「高木入姫尊」と刻んだ石玉垣内に古い五輪塔・石祠などがあり、ここがその鎮座地であったようだ。日下と共に額田の地も共に河内の大王家とつながる重要な場所。
弥生町は弥生式土器が多数発掘されたことからつけられた。
筑前の国早良郡に額田郷、奈良の平群郡に額田郷があり、饒速日尊の縁の地か。
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枚岡神社 |
史実 |
瓢箪山 |
瓢箪山は、ヒョウタンを埋めたような形に似ていることから瓢箪山古墳と呼ばれるようになった全長約50メートルの双円墳があり、この古墳名からついた。また、瓢箪山稲荷神社は天正12年(1584)豊臣秀吉が大阪城築城にあたり、大阪城鎮護のため辰巳の方角三里の外に、家臣・片桐且元に金の瓢(ひさご)を埋めさせ、丹後元伊勢神社から「ふくべ(瓢)稲荷」を勧請したことに始まるという。明治になってから瓢箪山稲荷神社の「辻占」が有名になり大変賑わった。
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瓢箪山稲荷神社 |
地形 |
松原 |
300数年前に作られた河内名所図会を見ると、当時の松原村は街道が東西に走り、、道をはさんで家並みが細長く続いている。村の西はずれには川があり、堤に松林が描かれている。ひときわ目立った松林が松原の地名の由来と思われる。暗越奈良街道が東西に通っており、松原はこの街道の中でただ一ケ所の宿場があったところであった。380年程前、16軒の宿屋があったという。
松原近くの吉田墓地に高さ64p巾47pで、花崗岩の自然石で深く「芭蕉」と刻まれた芭蕉供養碑がある。台石に「門人」とあり、かっては松原や吉田村は文化人の集まる佳き地であったと思われるがが松原宿に立ち寄った松尾芭蕉に俳句の指導を受けていたと思われる。
また、交通の要所とあって文化や情報が早く伝わるとともに、制度も早く取り入れられた。例えば、明治になり4年には郵便取扱所、7年には警察屯所が今でいう東大阪市域では一番早く取り入れられた。
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河内名所図会 |
情景 |
水走 |
恩智川の西岸、国道308号線の南北にまたがる水走は、北は加納、東は恩智川、西は川中に区切られている。恩智川は生駒山脈の西斜面の水を受け北側に流れ、今の川中も大和川付け替えまでは吉田川という川が流れていたところ。水走の地は、この二つの川にはさまれた上、生駒山から西に張り出した尾根によって川幅がせばめられ川の流れが速くなっていた。水走の地名はこうした地形から生ずる激しい水勢からつけられたと考えられる。
水走には、古水走と奈良街道沿いの町水走の二つの集落がある。式内社大津神社は古水走にある。集落の成り立ちが違っているためか、二つの村にはともに太鼓台があり、大津神社に宮入するが、いまでも祭礼の日が違う。
豪族水走(みずはや)氏は、枚岡神社の神職で天児屋根命に繋がる中臣系の枚岡連で、水走季忠が初代。のちに大中臣氏を称し、神主・物忌・禰宜・祝を世襲し、水走・鳥居氏などに分かれた。水走氏は中世に在地の武士団を統率して力があったことが知られている。
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大津神社
浄栄寺 |
地形 |
善根寺 |
昔この地に善根寺という寺がありその寺の名が地名になっている。「善根」とは仏教から出た言葉で、安楽な果報を招くべき善因を意味し「善根の積む」という使い方をする。村の起こりは奈良の春日大社が枚岡神社の神(天児屋根神、媛神)を勧請したとき、河内の多くの信奉者が一緒に移住した。後、25名が河内に帰り今の善根寺に住んだ。この25名の人たちは奈良春日大社の造営や屋根の葺き替えに従事する役目を受け継ぎ明治の初めまで続いていた。また、村を開いたとき建てられたのが善根寺の春日神社
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春日神社
おだいつ祭り |
史実 |
加納 |
式内社宇波神社のある古くからの集落である。古代は河内潟に面しており稲の栽培や魚介類の採取や他の地域との交流など便利で住みよい所であったと考えられる。
土地の古い人は「かのう」と言わず「かんの」と呼んでいるが、「加納」は文字通り、新しい土地を開発して農作物の収穫量を増やし、それに伴って年貢・租税を今まで以上に納めるようになった所と考えられている。特に、もともと農業に適さない土地から収穫量を増やしたことが顕著であったようだ。実際、この地は大和川、寝屋川の水が流れ込む大きな池を望む地にあった。この池が約300年前に埋め立てられ田畑となったが、低地のため加納の人たちはその後、水の苦労が絶えることがなかった。しかし、井戸や水路を掘り下流の寝屋川から足踏み水車を何段も使いながら水を確保してきたようだ。
「加納」はこの地に生きてこられた人々の努力の証しとも言える。
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宇波神社 |
地形
史実 |
若江 |
若江は古い地名で2説考えられる。
1説は、古代河内湖時代、大阪湾の入り江が生駒山麓までのび、東大阪市北部一帯は葦の茂る低湿地であった。この地は微地にあって清水のわく水辺の土地であったと思われ自然地形から由来しているという説。
2説には、『新撰姓氏録』の諸蕃の項に、百済の宮吏をしていた若江造の先祖が渡来してきたという記事がある。この付近に住んでいた氏族の名前を由来とする説がある。
若江鏡神社の祭神は、大雷火明命(オオイカヅチホアカリノミコト)・仲哀天皇・神功皇后となっている。延長5年(927年)の『延喜式』の神名帳に、神社名がある古社だから、歴史は古い。祭~の火明命は天火明命で饒速日尊に縁があると言われている。
乙巳の変(大化の改新)後、国、評(郡)の制度が作られ国には国衙、郡には郡衙という役所が置かれた。当時河内国には14郡があり、若江郡
はその一つ。若江公民分館建設時、奈良時代の瓦の破片が見つかったが、この付近が郡衙の跡といわれている。
地名のいわれだが、1、2説とも決定的な資料はないが古代より交通の要所であり、絶えず戦略的な要地であったことには間違いがない。
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若江鏡神社 |
地形
史実 |
岩田 |
岩田町区域内に式内社「石田神社」がある。天磐船の伝説が残る歴史のある神社である。境内の北側に堀が僅かに残っているが二つの塚(幸神塚と無名塚)があったそうで、その下に大きな石(天磐船)が埋まっていると言われている。そこから「石田」と書いて「いわた」神社と呼ぶようになった。地名のいわれはこの「石田神社」が地名「岩田」の起こりと考えられている。
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石田神社 |
史実 |
川俣 |
古代はこの辺りの中心的な集落で菱などの水草が茂る水郷であった。日本霊異記に奈良時代の話として、僧行基が前世の因縁に悩む川俣の女性を救う話がのっている。また、東大寺に銭一千貫を寄進した川俣連人麻呂という豪族の話、平安時代、和名抄には若江郡川俣郷の地名や川俣神社の名が見える。河俣、川派(かわまた)と書かれているが「俣」も「派」も分かれていることを示している。
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川俣橋 |
地形 |
鴻池 |
宝永元年(1704)の大和川の付け替え工事により造られた新田は192町歩に及び、翌年には121戸750名が移住している。この工事を請け負ったのが大阪の豪商、鴻池善右衛門宗利で地名は、開発者の鴻池新田と名付けられた。
もともと鴻池家は、戦国時代の武将、山中鹿之助幸盛の子ども、新六幸元が摂州河辺郡鴻池村(今の伊丹市鴻池)に移住し、武士を捨て酒造りを生業としたことに始まり、屋号を村の名前「鴻池」にした。軟水を使った酒であったが当時困難であった濁り酒を清酒にすることに成功し莫大な資産を蓄え大阪で両替商などを営み豪商となった。本市鴻池の地名は伊丹市鴻池に由来している。
なお、JR鴻池新田駅は明治45年、大久保利通が鴻池会所を訪れたとき、臨時に設けられた駅で、その後開業し鴻池家が駅舎を整備した。
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鴻池新田会所
朝日社 |
人名 |
中新開 |
中新開にある諏訪神社に伝わっている古文書、天文元(1532)年の氏神三社興立記に、「信濃国諏原の住人諏訪連が時に国、動乱に依り当地に来たりて」、河内に移り住み新田を開き村を起こしたことが書かれている。
その後、諏訪連の子孫が諏訪大明神を諏訪大社から勧請し稲荷大明神と筑波大権現の2社と併せて祀り氏神としたことが書かれており、中新開(村)は475年以上の歴史のある開拓村だと考えられる。
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諏訪神社 |
史実 |
岸田堂 |
この辺りも古代においては土地が低く長瀬川や平野川が氾濫し野原が広がっていたと思われる。「岸」または、「岸田」は地形から付けられた名で、「堂」は慈眼山長楽寺と言われている。長楽寺は敷地が広く(東西60メートル、南北36メートル)立派なお寺で建治3年(1277)の梵鐘もあった。特に有名なのは本尊の十一面観音は疱瘡を治す仏様として信仰を集めた。このことは「河内志」にも紹介されていた。江戸時代は黄檗宗万福寺の末寺となり、明治になって神戸に移築された。長楽寺の跡は岸田堂公民分館の辺り。神戸の関帝廟に「長楽寺の手水鉢」(貞享3年、1686)がある。
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長楽寺跡、岸田堂公民分館
神戸、関帝廟 |
地形 |
衣摺 |
二説ある。一説は、古代この辺りの人たちは「青摺」「丹摺」の摺衣を作っていたと考えられ、地名はこの「摺衣」からつけられた。
「雄略記」に雄略大王が引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)との結婚の約束を忘れ、80才になった赤猪子が涙を流し泣きながら丹摺の袖を濡らして歌った歌2首が載せられている。
○御諸に つくや玉垣。つき余し 誰にかも依らむ。神の宮人
○日下江の 入江の蓮。花蓮。身の盛り人、羨しき
ろかも
この赤猪子の着ていた丹摺は衣摺の人達が作ったものと考えられ地名と符合する。
もう一説は、587年、蘇我氏と対立していた物部守屋が本拠地の河内国渋川郡に馬子の軍を迎え撃った。しかしながらこのとき守屋はこの地で討たれた。聖徳太子がこのことを哀れんで大エノキの木に衣の袖を擦りつけて嘆き悲しまれたことから「衣摺」となった。
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衣摺神社址、
光泉寺 |
史実 |
小阪 |
江戸時代は、「小坂」を「オサカ」と読み、上小坂、中小坂、下小坂それぞれ独立した村であった。明治22年宝持村を加えて新しく小阪村となった。小阪の「阪」は大阪と同様、「坂」(土に反る)を嫌い、明治の市町村合併以降「小阪」を使うようになった。しかし、小坂神社は今も小坂だ。農耕・五穀豊穣、水の守り神でもあって「土」を使っている。「コサカ」と読むようになったのは大軌鉄道が通るようになってから駅名に「こさか」と記するようになってという説もあるが明治22年以後「こさか」と呼ぶようになったので考える。
そもそも「小坂」の由来は不詳だが、西の難波の「大坂」に対して東の「小坂」とし、呼び名を「オサカ」としたのではと考える。
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小坂神社
小阪弥栄神社 |
地形 |
新家 |
「新家」は、新しくできた村の意味で以前は若江郡新家村、さらに意岐部村字新家と呼ばれてきた。17世紀の初め織田信長、豊臣秀吉に敗れた紀州の根来衆の一人、規矩九右衛門がこの地に移り住んだのが新家の始まりで、元和元年(1616)といわれている。規矩家の四代目庄左衛門は幕府御用と勤める高名な商人で、宝永元年(1704)の大和川が付け替えられると、長瀬、楠根、玉串三川の川床に合計68町歩の新田を開発した。それぞれに屋号「菱屋」をつけ、菱屋西新田、菱屋中新田(藤戸新田)菱屋東新田とした。暗峠越え奈良街道の北側に沿う新家の町並みが残っている。菅原神社には菱屋新田の開発者、菱屋庄左衛門寄進の鳥居がある。
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菅原神社 |
史実 |
高井田 |
長瀬川西沿いの古い集落で、中世は石清水八幡宮、西大寺の領地で高井田の庄となっていた。大坂夏の陣で木村長門守重成を若江まで案内した弓の達人、飯島三郎兵衛が知られている。氏神の鴨高田神社は式内社で1200年余の歴史を持ち、隣の百済山長栄寺(別名長栄律寺、高井田寺)は、聖徳太子の創建と伝えられており、江戸時代のサンスクリット語の翻訳で有名な仏教学者、慈雲尊者が住職を務めている。鴨高田神社の祭~は速須佐之男命(素戔男尊)、大鴨積命、神功皇后、応神天皇。鴨氏とは、加茂・賀茂・甘茂ともいい、「古事記」では崇~天皇の時、流行する疫病を鎮めるために御諸山の意富美和之大~(おほみわのおほかみ・古事記ての神名)を祀った大物主大神(日本書紀の神名)の四世孫、意富多泥古を神君とともに始祖とする、と記されている。
古代の河内は河の運ぶ土砂で河内湖は陸地化していったが大部分は湿地帯で古代人は生駒山地の西麓や湿地帯の高所に居住した。鴨高は湿地の高所であったことを示し高井田の地名はそれによる。
高井田村は、明治22年に高井田、森河内、新喜多新田が合併して誕生している。 昭和38年に弥生時代の遺跡が発見されている。
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鴨高田神社
百済山長栄寺 |
史実
地形 |
長田 |
長田という地名は全国にも多くある。大抵が、田畑の地割りの形に由来。歴史的な事実との繋がりが見えないが、本市の長田は古代の氏族長田使主(ながたおみ)に関係があるという。長田神社の氏神は、本来は長田使主一族がその祖神を祀ったものとの説があり、新撰姓氏録では長田使主は百済国為居王の後とある。当社には笠木に屋根を付す珍しい台輪鳥居がある
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長田神社 |
地形 |
西堤 |
西堤は堤防の西側の集落を表しているが、元をたどれば第二寝屋川の西側でないようだ。実は、430年ほど前に大東の内助淵あたりから今の西堤に移ってきたようで、西堤とは、内助淵の西堤ということになる。430年前、長い戦乱の時が過ぎの内助淵にあった頃の「西堤村」の人たちは、土地の開発を始めた。まず、六ク川の南岸、稻田領の隣りに開拓地をつくり、続いて、さらに南の川俣領の中に今の西堤の村を作った。また、下小阪もこの時代に西堤の人たちが開いたといわれている。下小阪の小坂神社は西堤の人たちと共にから移ってきた。
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西堤神社鱗殿
小坂神社 |
地形 |
菱屋西・ 中・東 |
菱屋の地名は大和川付け替え工事後の新田開発者の菱屋庄左衛門の屋号をとったもの。17世紀の初め織田信長、豊臣秀吉に敗れた紀州の根来衆の一人、規矩九右衛門が新家に移り住み、四代目庄左衛門は呉服商として幕府をはじめ、大和郡山の柳沢家に出入りし許されて柳沢家の定紋「菱」を屋号とした。宝永元年(1704)の大和川が付け替えられると、長瀬、楠根、玉串三川の川床に合計68町歩の新田を開発した。それぞれに屋号「菱屋」をつけ、菱屋西新田、菱屋中新田(藤戸新田)菱屋東新田とした。
しかし、亨保17年(1732)菱屋三新田は全て三井家(越後屋)の所有となり、明治になって菱屋中新田の大部分は藤戸家の所有となり、大正6年藤戸新田と改められた。
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菱屋西墓地 |
人名
屋号 |
御厨 |
「厨」は台所の意味で、御厨は、朝廷や神社などに魚鳥・米穀・果物の類を納める土地を表している。東大阪北部は古代から中世にかけて旧大和川が大きく蛇行し絶えず洪水の恐れがあったが、古くからの「水」との戦いの結果、この辺りは海の幸、川の幸など豊穣な恵みがもたらされ、延喜五年(905)、この付近に広がる湖沼一帯を「大江御厨」と定めたことに由来する。朝廷には蓮や雑魚のすし、塩魚などを献上していたことが記録に残されている。
奈良街道から北に向かい参道がのびる天神社は集落の中央にあり、境内には推定樹齢900年といわれる東大阪市内最古のクスノキがある。また、境内にある石灯籠はこの辺りにあったという奈良〜平安期の薬師寺の遺品。奈良秋篠寺とのもと一対をなすという。 |
天神社 |
史実 |
大蓮 |
昭和47年までは「おばつじ」と読まれていたが、現在は「おおはす」。地名は「蓮」と繋がりがあるようだ。奈良時代、ときの右大臣藤原豊成の娘、中将姫が蓮の糸で曼荼羅を織りたいという願いを叶えるために近江、河内、大和の三国に蓮の糸を求めたところ、この地から得ることができたので、この辺りを「大蓮」と呼ぶようになったという。なお、中将姫が織ったという曼荼羅は、今も奈良県北葛城郡當麻町にある当麻寺に伝わっている。
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当麻寺 曼荼羅 |
史実 |
金岡 |
宝永元年(1704)の大和川付け替えとともに行われた新田開発によって生まれた土地で、金岡新田は、大坂の末長甚兵衛、江戸の田中源七が開発権を得て開発した。「金岡」という名称の由来は不明。「金岡新田」から単に「金岡」と呼ぶようになったのは、明治43年からであった。金岡は今の金岡公園から久宝寺駅までそして、南北1.6キロメートルの細長い地域をいう。 明治9年の記録によると人口は24名、同じく22年は、25名で、ほんの4.5軒の小さな村だった。
旧大和川の川幅は凡そ200メートル。この辺りは特に広く、川幅は380メートルもあった巨大な川だった。堤は旧大和川が天井川ということもあって小高く、松並木が長々と続いていたそうだ。
「金岡」という名の由来は不明だが、土地が肥え農耕に適していたことからついたのではと推測される。
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永和 |
明治につけられた地名だが「永和」を「ながにご」と読んだ。この「ながにご」には深いいわれがあり永和に人たちの願いが込められていた。江戸時代には横沼、長堂、三ノ瀬が荒川村に属していたが、明治になり一つの村として独立したいという希望があり、ときの堺県令税所篤(さいしょうあつし)はこの要望を入れて荒川村から分離して一村とし、永久に平和であるようにと、「永和」と名付けた上、読み方を「ながにご」とした。しかし、長堂は東足代村に、三ノ瀬は荒川村に合併し、「なごにご」は旧横沼だけになった。「なごにご」は永和(えいわ)にに変わった。
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新語 |
新喜多 |
宝永元年(1704)の大和川付け替えとともに行われた新田開発によって生まれた土地でそれまで川床であったところを水路(長瀬川)を残して埋め立てたもの。鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の三名が開発を請け負った。3名の名前を1文字ずつとって「新喜多」とした。
付け替え前の大和川はこの辺りで270メートルあり、渡船が行き来していた。今も、渡シ地蔵尊が祀られている。
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新喜多橋
渡シ地蔵尊 |
人名 |
足代 |
東大阪市の中心布施、そのさらに中心である「足代」の地名については、そのいわれを示すような古い神社や史跡など見あたらない。しかし、実は衣摺等の地名と並んで東大阪の中でも古い地名ではと考えられる。四天王寺創立の経緯を示した「四天王寺御手印縁起」(国宝)に物部守屋と蘇我馬子との戦いで敗れた広大な守屋の所領が蘇我氏側であった厩戸皇子の所領となった。その中に「足代地ー渋川郡梓里」とある。
また、この足代地域は、今から7000年前頃(縄文前期)には入り込んだ大きな湾になっていて、古代には葦の生い茂る湿地帯に変わっていたと思われる。川の浅瀬に竹や木・葦をあみ連ねて魚を獲る仕掛けを網代とよび地名の足代は、魚を獲る網代が足代に変化したものか。
現在、荒川に鎮座する延喜式内社「都留弥神社」はもともと足代にあったもの。大正3年、明治22年に合併した布施村旧村の八つの神社を合祀して旧荒川村村社鹿島神社の社地であった現在地に移した。祭~の速秋津日子神、速秋津比売神は港、河口の守り神といわれている。後に、雨乞い・農耕の神として崇敬されてきた。
中世には足代荘という荘園があり繁栄した。さらに江戸時代になると街道の往来が盛んになりこの足代は奈良街道と十三街道の分岐点として交通の要所になった。特に奈良街道は大阪玉造から、吉田、豊浦、暗がり峠を経て奈良に至る本街道で、大和、伊勢に向かう旅人で大変賑わい、この時代、足代から深江一帯で作られた笠(足代笠)などの菅製品が特産物として知られた。伊勢参りをする旅人たちにこの菅笠は大変重宝がられ旅人は争って菅笠を買ったといわれている。
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四天王寺御手印縁起
都留弥神社
足代笠 |
地形 |
俊徳 |
近鉄大阪線の俊徳道駅は、大軌が作られた大正13年の2年後に布施駅(当時足代駅)と長瀬駅の間に作られた。駅名は、俊徳道のいわれは東西に俊徳道・俊徳街道が通っていたことによる。
俊徳道といわれたのは、八尾高安から四天王寺に通じる道で、高安山畑の長者信吉の息子、俊徳丸が四天王寺へのお詣りに、又は習い事に通った道だと伝えられている。謡曲『弱法師』や浄瑠璃『摂州合邦ケ辻』、それに説経節『しんとく丸』の題材となった。この話は鎌倉時代の遡ることができるという。
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謡曲『弱法師』 |
物語 |
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