歴史と街かと゜

     東大阪長瀬・弥刀地域 ー古大和川の歴史とともにー  
     長瀬神社、吉松新田会所、樟徳館、波牟許曽神社長瀬墓地と行基菩薩学校安全ノ碑(弥刀小学校内) 
    
彌刀神社(式内社)、御劔神社衣摺顕彰碑、おつる地蔵、伝中将姫供養塔

     
長瀬神社
 神社は旧大和川堤防であった南山の地に大正元年(1912年)12月創建されたもので、比較的新しい神社だ。明治22年の市町村合併で長瀬村が誕生したが、それ以前の大蓮村、衣摺村、吉松新田、横沼村、柏田村、北蛇草村にあった8つの神社を明治39年の神社整理令(一村一神社)によって合祀された。その8社とは、蛇斬(じゃさき)神社、天神社(横沼と柏田)、衣摺神社、白山神社(大蓮と柏田)竜華神社と波牟雄の象徴がある獅子許曽(ハムコソ)神社。8つの神社を合祀しているためか、本殿は旧村のあった西に向かって建っており、参道は南、北、西に開かれている。いずれの参道にも立派な鳥居がある。祭~は伊弉諾尊、伊弉冉尊をはじめ、素戔嗚尊、保食神、管原道真、応~天皇、菊理姫などであるが、境内には多くの石造物が配置されている。
 石造物の中で特筆すべきは、東大阪市内では最古とおもわれる灯籠一基が本殿南側の庭にある「正保4年(1647)長覚寺牛頭天王石灯籠」と、「延宝8年申(1680)」銘の牛頭天王灯籠がある。また、珍しい雄の象徴が刻まれた寛政五歳癸丑(1793年)銘の阿形の狛犬(獅子)がある。 
問題 1 長瀬神社には鳥居が幾つあるでしょうか。
問題 2 獅子に雄の象徴をつけた理由は何でしょう                          
    近鉄大阪線 長瀬駅より長瀬川沿い南西800m





 吉松新田会所跡(長瀬北小学校内に説明板)
 長瀬北小学校南校舎、プールは江戸時代に建てられた吉松新田会所を取り壊して昭和51年に建てられた。
 この辺りは幅200mという巨大な河川、古大和川が流れていた地で、宝永元年(1704)の付替工事により、その古大和川は干し上がり川敷きの中央に用水路(長瀬川)を開削し新田が拓かれた。それが金岡新田、吉松新田、菱屋西新田などで、吉松新田は大坂の商人末長甚兵衛によって拓かれた。開発された吉松新田(約16ha)の土地管理と年貢徴集などの仕事をした事務所が「吉松新田会所」で昭和51年まで残っていた。会所には長屋門と幹周り2〜3mのエノキの巨樹があり、入母屋造りの主屋、土蔵、茶屋、そして生駒山を借景にした池と築山があり、南側に吉松新田の氏神・竜華神社の祠、石鳥居、狛犬、石灯籠があった。その石鳥居、狛犬、灯籠は長瀬神社に移されている。
 また、吉新田会所前は吉松浜と呼ばれ、船着き場があり剣先舟が行き交っていた。奈良や大坂の町、瀬戸内海の町とも繋がり商人達が利用し野菜や米などの物資を運んでいた。学校の西側が堤防であったので長瀬北小学校校舎全体が古大和川の中にあったことになる。学校の西側、左岸の堤防跡は、金岡公園西側の「百間堤跡」を見ればよくわかる。右岸は、友井墓地で今の道路と墓地の地面との段差が2m位あり当時の堤防の高さがよくわかる。
 なお、校名にも使われている地名「長瀬」の由来は、8世紀頃、今から1250年前に高句麗からの渡来した長背王の子孫である長背連(ながせむらじ)と呼ばれた人たちがこの辺りに居住したことによるといわれている。背が高くがっちりした体格の人たちの集団といわれ、古代の馬の飼育などに携わったようだ。日本書紀にある河内馬飼首荒籠との関連も指摘されている。そのことがあってか、行基上人が作ったという長瀬墓地の名前が「荒馬の墓」とも呼ばれていた。この墓地には融通念仏宗で有名な法明上人の墓があり通称「有馬御廟」と呼ばれているのは「荒馬」から「有馬」に変化したものといわれている。
 

 大蓮の石経法華塔(伝中将姫供養塔) 

 金岡公園横の金岡中学校すぐ西側大蓮東一丁目にある石経法華塔が当麻寺の曼荼羅で有名な中将姫の供養塔であることはあまり知られていない。
 大蓮には昔、大きな蓮池があり、中将姫がここからとれるレンコンの蓮糸を近くの井戸で洗い五色に染めて何日もかけて立派な曼荼羅を織り上げたいう話がある。中将姫という人は奈良時代の右大臣藤原豊成の娘で文芸に秀でていたが継母の嫉妬心から遠くに追いやられ大変苦労されたという。大和の当麻寺で仏門に帰依し美しい曼荼羅を蓮糸で織り上げた。大きな曼荼羅を織るためにはたくさんの蓮糸が必要であった。河内・大和をはじめ各地の池の蓮糸が献納されて織り上げたという。
 この辺りに東西40m、南北26mの大きな蓮池があったことは事実のようで、大蓮の地名はこのことに由来しているようだ。なお、この供養塔の南200mに蓮糸を洗ったという清水井という井戸があった。
 現在、当麻寺には古曼荼羅、文亀曼荼羅、貞享曼荼羅の3本の曼荼羅がある。





 帝国キネマ長瀬撮影場跡

帝国キネマ長瀬撮影場 長瀬川に架かるキネマ橋の横に帝国キネマ長瀬撮影場があった。長瀬撮影場は昭和3年(1928)5月、当初の敷地は5000坪・かまぼこ型のスタジオ2棟と二階建ての建物が建てられた。実は、長瀬撮影場以前に小阪駅北側の小阪撮影場(600坪程度)があった。創設は大正5年(1916年)といわれており、大正9年(1920)山川吉太郎が帝国キネマ演芸株式会社として立ち上げ、千日前の天活クラブ以下8つの活動写真館、芦辺劇場以下6つの劇場と小阪撮影場を持っていた。
 小阪撮影場は無声映画、時代劇が主で年間100本制作していた。雲霧仁左右衛門、花の春遠山桜、白藤権八郎、清水次郎長が有名で<市川 百々之助><尾上紋十郎><霧島 直子>などの人気スターが活躍していた。特に、大正13年の「籠の鳥」が大ヒット。呉服店の箱入り娘、お糸→許嫁の番頭・豊助に大学生、上山 文雄が登場する。演ずるは<沢 蘭子> <里見 明>結婚式前夜、篠つく雨の中 文雄の下宿へ。しかし不在でお糸が夜道をさすらう。歌「逢いたさ見たさに 恐さを忘れ 暗い夜道を 只一人」がまたまたヒットする。この小阪撮影場は不況のために大正14年(1925)3月に閉鎖された。
 その後、松竹 白井松次郎の肝いりで 長瀬撮影場ができた。トーキースタジオが2棟あり、『東洋のハリウッド』といわれた。
 昭和5年2月上映された「何が彼女をそうさせたか」が大ヒットしその収益でさらに敷地5000坪拡大。一万坪の大スタジオが長瀬川沿いに出現した。この映画はいわゆる左翼系の「傾向映画」。しかし、意外とロマンチック、メルヘン調という評判をとる。
 ◎貧農の少女が「孤児院、曲馬団、宗教団体の養護院と冷酷な資本主義的な搾取の社会に翻弄され、ついに放火する」までに追い込まれてしまう。と、いうストーリー。ただ運命を受け入れるだけでなく、反撃もし当時の人々の共感を得たようだ。
 この映画のフィルムを山川吉太郎の孫、山川暉雄さんが、1991年ロシア「ゴス・フィルム・フォンド」にて、発見する。不燃フィルム化され京都で上映もされたがラストシーン「火事の中聖書を踏みつけて逃げる」というシーンは欠落していた。しかし、一度この映画は見たいものだ。どこかで上映されることを望みたい。
 この長瀬撮影場は残念ながらも昭和5年(1930)9月30日夜半1時20分ごろ出火。午前4時ごろ鎮火した。原因は漏電といわれている……が。
 なお、高井田の長栄寺には帝キネの人気俳優市川 百々之助の立派な墓がある。
 最寄り駅 近鉄大阪線 長瀬駅下車 川沿いに600メートル北へ





 樟徳館
(旧森平蔵家住宅)

 樟徳館は帝国キネマ長瀬撮影所跡に樟蔭学園の初代理事長であった森平蔵氏の私邸として昭和14年に建てられた。もと材木商であった森氏は、日本各地の銘木のなかから選りすぐりの材木を原木のまま集め、この場所で墨掛け木取りを行ったといわれている。屋敷内は書院造り系統の主屋ほか緒建物と洋式接客棟からなり、主屋は関西では最高とされる松普請、主屋の北に接続する仏間は杉・桧普請で、主屋は関西の棟梁、仏間は関東の棟梁を呼び寄せて互いに技術を競わせたとのこと。
 また、洋式接客棟は外観は和風だが、内部は寄木張り床に暖炉を持つ応接間です。花頭形窓に和風絵柄をもつステンドグラスや格天井に和風デザインが取り入れられた和洋折衷の建物だ。最高の材料を使用し、造形の模範となること等から、平成12年11月、国の登録文化財になっている。
 帝国キネマ長瀬撮影所は昭和3年、小阪にあった撮影場を移して建設されたもの。当時、東洋一の撮影所として、近くの松林などでロケーションなどが行われて多くの名作を生んでいる。しかし、昭和5年失火によって一万坪あった撮影所は全焼している。
   近鉄大阪線 長瀬駅 川沿いに600m北へ






 波牟許曽神社(式内社、ハムコソ神社)
 波牟許曽神社
波牟許曽神社は延喜式~名帳に記載されている創立の古い、由緒ある神社である。「中河内郡誌」には、祭~は埴安姫命、渋川郡六座の一つにして延喜式の制の小社に列し給う名社なりしも、大森天神と称し奉るは本社なり、旧社地の傍らに大加池あり。と記されている。明治五年には村社に列し、そばに神明池があり里民はこの池水を使って斎戒沐浴していたという。江戸時代は広い敷地をもった大社であったと考えられる。明治末期には、430坪をもつ神社であった。明治41年、長瀬村内の八社の合祀が決まり、大正元年衣摺字南山の地に長瀬神社が創建され波牟許曽神社の旧地には波牟許曽神社の旧跡の碑が建てられたが、その旧跡の地に祭祀を続けなければならないという地元氏子たちの熱意によって、大正3年、同地に伊邪那伎大神(いざなぎおおみかみ)伊邪那美大神(いざなみおおみかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の祭~を迎え祭祀を続けることとなった。現在は、その三~の他、脇社には須戔鳴尊(すさのおのみこと)猿田彦大神などを祀っている。(スケッチは山田修さんの作品)


     JR長瀬駅、近鉄大阪線長瀬駅すぐ




 長瀬墓地と行基菩薩

 長瀬墓地の東入口から入って右側に行基井と六地蔵に続いて「行基大菩薩」と刻まれた供養碑がある。奈良時代の高僧行基菩薩が開いた河内七墓の一つである。
 河内の七墓(長瀬、岩田、額田、晒、恩智、垣内、神立)、いわゆる「河内七墓巡り」といって毎年、盆の日或いは盆の月のうちに参り迎仏する風習があった。こうしたお詣りをするとたとえ病気になっても下の世話をかけずに済むといわれている。江戸時代にはこの風習が盛んになり大坂から老若男女の参拝者が訪れこの辺りも大変賑わった。
 長瀬墓地は、旧長瀬村全域と旧布施村のうち岸田堂、太平寺、三の瀬の共同墓地であった。今は市営墓地として利用されている。墓地内に阿弥陀院があり本尊の阿弥陀如来座像は鎌倉時代(約800年前)の優れた作品で市の文化財にされている。また如来像の右側に鋤を手にした行基の木像が置かれてる。通常は如意(僧が説法するとき手にする具)を手にしているが鋤を手にしているのは大変珍しい。これは多分、村人と共に手に鋤をもって村を拓き墓地を作る工事を起こしていることを表わしていると考えられる。この阿弥陀如来座像は、鎌倉時代(約800年前)の優れた作品で東大阪市の文化財に指定されている。
 行基菩薩は奈良時代の高僧で百済系の渡来人と言われている。668年に家原寺で生まれ多くの人から尊敬されながら天平勝宝元年81歳で没し生駒東麓の竹林寺境内に葬られている。行基は当時の貴族中心の国家仏教に背を向け民間布教に従事し信者と一緒に力を合わせ49の寺を建て15の池、6つの道・橋を作り、また、各地に9つ布施屋を開き貧しい人達を救う事業をされた。いわば今日でいう社会事業に尽くされた高僧であった。また、東大寺大仏建立に協力し「大僧正」という高い僧の位を与えられた。なお、長瀬墓地は昔、荒馬(あらま、ありま)の墓といわれ有馬とも書いていた。
 近鉄大阪線 長瀬駅 南西300m、



 学校安全ノ碑(弥刀小学校内)
 今から74年前、昭和9年9月21日に室戸台風が大阪を襲い、多くの犠牲者が出た。当時の新聞にI橋第二小学校(現北I橋小学校)、四天王寺五重塔の倒壊とともに「中河内、弥刀村校でも百名死傷」と報道されている。
 罹災者で当時、高等小学校在籍であったある女性は、「朝から激しい風が吹いていたが、今のように暴風雨警報なども発令されずいつものように登校した。午前7時50分ごろ、後で分かったことだが風速60メートルの強風によって、東南にあった木造2階建て200坪ほどの校舎のガラス障子が吹き飛ばされたと思うまもなく一大音響と共に校舎が倒壊した。その校舎には1、2、3年および高等1年が教室に使っており児童達200名が廊下に集められ授業の開始を待っていた。100名ほどは倒壊前に逃げ延びたが、残り100名は下敷きとなった。その中で、校舎の一部が横にあった塀に支えられて僅かな隙間ができた。その隙間のおかげで辛うじて怪我だけで私は救われた。」と語っている。この室戸台風により弥刀小学校では、児童33名、母1名が亡くなった。
 室戸台風による被災者の33年祭(三十三回忌)にあたる昭和42年同校PTAによって校内にこの碑が建立された。災害から学校安全、子どもたちの命と安全を守ること、健やかな成長を祈念して建てられた。また、当時は、気象予報も今のように充実していなくて警報も発令されない中、児童たちは折からの強い風雨を心配もしながら、いつもの様に登校し校舎倒壊という大災害に出遭った。二度と、このような災害による惨事を学校で起こさないことを誓うという意味もあった。
 碑が建立されて40数年が経った今、「安全な学校」は自然災害に強い学校、校舎であることは当然だが、地域での子どもたちの安全をどう守っていくのが大きな課題なっている。その意味から、この「学校安全の碑」の意義は大きいものがある。



 彌刀神社(式内社)
 
彌刀神社彌刀神社創建の年は不詳だが、天平宝宇6年(762)の「続日本記」という歴史書に、旧大和川(現長瀬川)長瀬堤の決壊による激流で、社殿がことごとく流失したという記録がある。当時は川幅が200m以上もある旧大和川の洪水による水害が度々あり、その水戸(みなと)の守り神として当神社があった。本来は近江堂の村内き(東向き)であるべき社殿が川向き(西向き)に構えられているのはそのようなことからと考えられる。
 平安時代の延長5年(927年)に完成された延喜式神名帳には、河内国若江郡二十二座の中に記載されている式内社で、官幣小社だった。社殿には、河口の神すなわち水戸の神、速秋津日子神と速秋津比売神を主祭神としてお祀りしている。摂社八坂神社には災害や厄除けの神、須佐之男命(牛頭天王)を、末社常世神社には医療や禁厭(まじない)の神、大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命)をお祀りしている。昔の神社用地は現在よりも広く、戦後まで西の鳥居から旧大和川右岸堤防跡までには、お旅地・馬場地・御供田といった神社関係の小宇名の地名が連続して残っている。
このことは御祭神水戸(みなと)の神とも符合し、水戸か彌刀となり、大水戸が近江堂となった現在の地名も伺える。[御鎮座由緒略記より](スケッチは山田修さんの作品)
        
    近鉄大阪線 弥刀駅北東へ500m





 御劔神社
 
御劔神社は、950年前に友井4丁目の現「法敬寺」の東北方に創祀せられていたものを享保元年(1716年)管原道真公を合祀して現在地の友井3丁目11番地に遷座した。以前は牛頭天王と号していた。牛頭天王とは素戔嗚尊を祀った神社である。明治2年のころに「御劔神社」と改称された。本殿は幾度かの災いに遭い弘化4年(1847年)再建し、明治13年11月及び昭和7年10月に小修理をなされ、その折り盛大な祭典を執り行われたようである。明治42年に若江鏡神社に合祀されたが昭和21年9月に現神社に正遷座された。祭~は2柱で、素戔嗚尊と菅原道真公である。素戔嗚尊は出雲氏族の祖~で英雄~といわれ出雲、紀伊地方の八俣大蛇(やまたおろち)退治で有名、植林事業などで人間に福を授ける神とされる。また、管原道真公は、平安前期の学者で政治家でもあり「天神さま」として広く学問の神様として信仰されてきた。本殿前庭部には元禄15年(1702年)の灯籠一対、宝暦年間(1751〜64年)の「牛頭天皇」(天王が正しいが碑文は天皇)の碑が残っている。また、本殿には菅原道真~像があり、その台座に享保元年の銘がある。また、正面扉には素戔嗚尊の象徴である「松」、側壁面には菅原道真の象徴「梅」描かれている。

   近鉄大阪線 弥刀駅 東へ300m


 衣摺顕彰碑
 衣摺にある『衣摺顕彰之碑』はあまり知られていない。
平成元年北八尾街道沿いに建てられたこの碑は6世紀の末の物部守屋と蘇我馬子との戦い、「衣摺の戦い」に由来している。
この物部氏と蘇我氏の戦いの原因は3つ考えられるが、一点目は軍事・警察を司っていた物部氏に対して財政のテクノクラートであった蘇我氏との勢力関係の均衡が崩れかけたこと。二点目は、仏教のヤマトへの導入をめぐり蘇我氏と物部氏との長年にわたる対立である。三点目は皇位継承をめぐる対立であった。最初の戦場は石川と大和川と合流するあたりかと思われる。守屋は一族を集めて衣摺に稲城(いなぎ)を築き守りを固めていた。主戦場は守屋の本拠があった衣摺で、守屋は榎の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけた。馬子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。物部軍は強盛だった。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見首赤檮(とみのおびといちい)が大木に登っている守屋を射落として殺したことになっている。後世になって、この「稲城」をはじめ物部守屋の戦いのゆかりの地の多くが八尾太子堂の聖徳太子ゆかりの大聖勝軍寺周辺に比定されているが、史実から見て物部守屋最期の地「稲城」は、ここ衣摺が妥当といえる。このことを顕彰しているのが「衣摺顕彰之碑」である。





 
おつる地蔵(辻地蔵)
 衣摺3丁目の旧八尾街道西100m南の四辻に地蔵菩薩が祀られている。この地蔵菩薩は近くに住むおツルさんが親のおウメが亡くなった後も、その遺志を継いで供養を毎日続けていたことから「おつる地蔵」と呼ぶようになったそうだ。
 実は160年前から祀られていたようで、地元の郷土史研究家の佐野一雄さんによって解読された地蔵堂の棟木札の墨書には弘化3年(1846年)の開眼供養に子孫の無事と衣摺村の幸せ、村人の健康を祈ったことが書かれており地蔵にまつわる言い伝えなどが明らかになっている。それによると、もともとこの地蔵菩薩は衣摺村と隣の正覚寺村との境に立っていたが、ある晩、隣村の人に蹴られ首が折れ、川に落とされたことがあった。その後、今の場所に祀られるようになったのは政埜さんの厚意によりこの四辻に立てられたものという。
 地蔵堂の横にある道しるべは年号はないが古いもので、各面に「北すぐ玉津くり」「西すぐ天王寺」「東すぐ志起山」「南すぐひらの」と刻まれている。



  
 伝中将姫供養塔
 金岡中学校のすぐ西側大蓮東一丁目にある石経法華塔が当麻寺の曼荼羅で有名な中将姫の供養塔であることはあまり知られていない。
 大蓮には昔、大きな蓮池があり、中将姫がここからとれるレンコンの蓮糸を近くの井戸で洗い五色に染めて何日もかけて立派な曼荼羅を織り上げたいう話がある。中将姫という人は奈良時代の右大臣藤原豊成の娘で文芸に秀でていたが継母の嫉妬心から遠くに追いやられ大変苦労されたという。大和の当麻寺で仏門に帰依し美しい曼荼羅を蓮糸で織り上げた。大きな曼荼羅を織るためにはたくさんの蓮糸が必要であった。河内・大和をはじめ各地の池の蓮糸が献納されて織り上げたという。
 この辺りに東西40m、南北26mの大きな蓮池があったことは事実のようで、大蓮の地名はこのことに由来しているようだ。なお、この供養塔の南200mに蓮糸を洗ったという清水井という井戸があった。
 現在、当麻寺には古曼荼羅、文亀曼荼羅、貞享曼荼羅の3本の曼荼羅がある。




布施・永和