東大阪 石切、孔舎衙地域
     
神話と信仰の街・石切、枚岡  豊かな歴史と文化の街・日下
     石切劔箭神社(上の社・登美霊社)、北川小路地蔵堂(辻子谷)
       
石切四光地蔵堂(爪切り地蔵尊、四光地蔵尊)
千手寺ー光のお堂ー、辻子谷の水車郷
     日下貝塚跡(国指定史跡
郷学校跡(正法寺・大龍寺)今に残す黄檗伽藍 大龍寺、
      丹波神社
「盾津の浜」の碑


 石切劔箭神社(上の社・登美霊社)
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 饒速日尊降臨と長髄彦
 
「石切さん」と親しまれ多くの人の信仰を集めている東大阪にある「石切劔箭神社」。石をも切り通す劔と箭を神霊とされていることはよく知られ、いつでも境内は「お百度参りの人」やお参りする人でにぎわっている。江戸時代では、年間100万の人が訪れたという記録もある。石切劔箭神社の歴史は古く宮山に祀られたのは2000年前といわれ、延喜式神名帳では、物部氏の祖神櫛玉饒速日尊とその子、可美真手命を祭神としている。また、穂積氏の氏神でもある。
 近鉄石切駅を東に徒歩で5分程の所にある石切劔箭神社上の社と登美霊社についてはその由緒とともにあまり知られていない。登美霊社は饒速日尊の妃で可美真手命の母君である登美夜比売(三炊屋媛)をお祀りしているが、その社殿は、前方後円墳と竪穴式住居を模しており、その造形は優美で一見の価値がある。周り の風景にも溶け込み厳かな雰囲気を醸し出している。上の社はその登美夜比売の兄、古代生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を誇っていた「隠された英雄・長髄彦」を祀っていると言われている。社殿はもとの下の社であった本殿を昭和6年解体保存、昭和47年再興されたもの。現在の上の社が本殿として祀られたのは慶安4年(1651年)と伝えられており、現在の本殿は下の社と称されていた。
 神武2年に祀られたという宮山の祠と石切劔箭神社、上の社、登美霊社の四つの社の存在は、黎明期における古代日本、長髄彦に代表される「縄文」の世界と饒速日尊に代表される「弥生」の世界の歴史的な展開を如実に示して興味が尽きない。登美夜比売は、時代の大きな変革期にあってその橋渡しをしたとも言える。
 また、「石切」をエミシ語で読むと「イシキルイ」(彼の大いなる脚)=長髄彦を意味する(進藤治氏)という。土着の民と渡来した民(物部氏=「劔箭」)との平和共存を示す社名はまさに人間の知恵が感じられ楽しい。
 さて、石切劔箭神社本殿と上の社、宮山は一直線でつながり、その延長線上に生駒山頂がある。櫛玉饒速日尊が天神の御祖(みおや)から授かったという十種神宝をもって天磐船に乗って哮峯(いかるかのみね)に降臨したという先代旧事本紀「天神本紀」の哮峯(いかるかのみね)は実は、生駒山系の一峯と考えられている。
 また、登美霊社の横に日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征途上、相模から上総に渡るとき海が大いに荒れた時、海神を鎮めるために入水したといわれている妃(古事記による)で穂積氏の娘、弟橘媛命を祀るかわいい婦道神社が登美霊社ある。上の宮
 石切劔箭神社境内にある水神社があり、亀の背に願い事を書いて放つ習慣があることが、説明板に記載されている。その中に穂積神霊社にまず祈り、大願成就がなったとき、上の社にある池に亀を放つことが記されている。このことでも穂積氏が石切劔箭神社を本拠としていたことがわかる。
 
 奈良の春日大社は、この石切劔箭神社から真東にあり、さらに春日大社の本宮から真南に物部氏の本拠である石上神宮に出会う(直角三角形をつくる)。そこは穂積氏の本貫地でもある。実に、不思議な話だが、ここに古代史を読み解くカギが秘められているように感じた。
 ところで石切劔箭神社に4世紀後半の三角縁神獣鏡や単鳳環頭太刀柄頭などの古墳からの出土品が保存されていることなどは余り知られていない。
(スケッチは山田修さんの作品)
   
   
   石切劔箭神社は近鉄奈良線石切駅下車すぐ。
   登美霊社へは、近鉄奈良線 石切駅下車、東へ800メートル生駒山より


 
北川小路地蔵堂(辻子谷)
                        庚申信仰、板碑愛宕信仰、常夜灯
北川小路の地蔵尊 昭和43年8月に改築された地蔵堂内には、和泉砂岩造りの高さ96pの舟形地蔵(元文2年・1737の銘)を中心に、右側に愛宕信仰の石の常夜灯(享保4年・1719の銘)、左側に庚申信仰を表す梵字と青面金剛の文字の刻まれた花崗岩造り板碑の3つが並べて祭られている。
  
近鉄奈良線 石切駅 
    西へ辻子谷に沿って下る。












 石切四光地蔵堂(爪切り地蔵尊、四光地蔵尊)
爪切り地蔵尊阿弥陀如来像  大師堂の前にある四光地蔵堂内に、弘法大師が、わが爪(つめ)で一夜のうちに刻みあげたといろ伝承をもつ、「爪切り地蔵」、または「爪かき地蔵」の名で親しまれてきた地蔵菩薩(室町時代初期の作)が祀られている。
 高さ1.8メートル、横幅1.6メートルの生駒石の表面に、蓮華座(れんげざ)に立つ像高88センチメートルの地蔵菩薩を中心に、珍しく冥土(めいど)で裁きをくだす十王らしい座像がその両脇(わき)に一体ずつ刻まれている。冠と法服を身につけ、笏(しゃく)をもった立派な姿だ。
 地蔵堂の扉から見えるのは同じ生駒石の西面に刻まれた線彫りの阿弥陀座像(四光地蔵という。爪切り地蔵より後年の作)。一つの石に地蔵菩薩と阿弥陀如来が彫られている珍しい石仏だ。
 地蔵十王信仰は、中世に盛んになった閻魔王の本地を地蔵菩薩とし、地獄に落ちた者も現世で地蔵を信仰すれば極楽往生出来るという信仰。閻魔王を中心に居並ぶ十王は人が死んでから迎える初七日から三回忌までの十回の法事の度に生前の罪業を裁くといわれ、死者の罪の多寡を鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなど畏怖の対象であった。十王それぞれに本地があり、閻魔王に対して地蔵菩薩五道転輪王に対して阿弥陀如来であった。乱世にあって極楽往生を願ってやまなかった人々の心情が如実に物語っている石仏だ。
 最寄り駅 近鉄石切駅南口より100メートルほど登った所、大師堂の前。



  千手寺ー光のお堂
在原業平を祀る五輪塔 千手寺は、天正2年(1574)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後、里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844〜897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(鴻池新田あたり)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
  なお、維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
 役行者、善女竜王、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。
 千手寺は、善女竜王を祀り雨乞い、山岳
 寺には本尊の千手観音菩薩立像と江戸時代の高僧で宝山寺を開いたことで有名な海律師の作になる木造不動明王像(室町時代)、青不動と両脇士を描いた大幅の絹本著色不動明王画像(江戸時代)、五杵、五鈴などの密教法具(鎌倉〜室町時代)(いずれも大阪府、東大阪市指定有形文化財)など多くの文化財が残されている。 



  辻子谷の水車郷 復元された水車

 生駒の中腹、辻子谷は江戸時代より水車を利用した漢方薬を主にした製薬業、製粉業が盛んだった。辻子谷の水車郷と呼ばれた頃は音川に沿って谷間に44台が稼働していた。昭和40年代に殆どが消えてしまった水車を復元しようとされたのは、水車が回り蛍が飛び交う昭和30年代の辻子谷の原風景を是非とも子どもたち、孫達に残したいという思いを持った昭楠会の人たちだった。2年前に復元された水車は直径約6メートルと立派なものだ。水車の横には、カワニナや蛍の幼虫が飼育されている。他所からの移入でなく音川の蛍を育てているそうだ。この夏(平成18年)は、蛍の群舞とごとごとと水車が回る原風景が実現していることだろう。今、ミニ水車小屋の計画も建てられ、多くの人の訪れを待っている辻子谷です。
 

 最寄り駅は、近鉄奈良線 石切駅下車、東へ徒歩20分。


 旧生駒トンネルその歴史旧生駒トンネル西側入口     石切駅から孔舎衙に向かって下ると程なくして右側に旧生駒トンネルの西側入口が見える。孔舎衛坂駅当時のプラットホームが上り下りとも残っている。この旧生駒トンネル工事と朝鮮労働者について暗い話がある。トンネル工事は1911年着エし、完成は1914年(大正3年)である。トンネル全長3387mであったが工事中2回落盤事故が起きている。当時、韓国人労働者が数人働いていた。
@着工のその年の9月20日、落盤生き埋め3人、死亡2人
A1912年1月26日再び落盤。生き埋め148人。生存者128人、死亡者20人であったが、死者の中に朝鮮人労働者がいた。事故の起こった東側(生駒より)に死者をとむらうための慰霊碑や無縁仏が建てられて祀られている。また、孔舎衙東小の南、称揚寺に建設会社が建てた「招魂碑」がある。石碑の裏面に24人の傷病没者が刻まれていて、その中に、3名の朝鮮人の名前が刻まれている。何故、当時朝鮮人労働者が日本で働いていたのだろうか。いや、働かざるをえなかったか。それは戦前、日本が大陸への進出の足がかりに朝鮮でしたことと大きく関係していた。



  日下貝塚跡(国指定史跡)
 地球温暖化への警鐘か
日下貝塚遺跡はこの上方
 JA横の道路沿いに立っている「日下貝塚の碑」を目当てに訪れる人の多くが失望されて帰られる。日下貝塚遺跡は実は、この碑より30メートル程登った所にある。今は、畑地となっているがその所有者である井上さん宅の土間に約2500年前の30〜35才位の女性の頭骨も含め磨製石器、サヌカイトの石鏃、突端文のある縄文土器がなどの出土品が陳列されていることはあまり知られていない。出土品の多くは埋蔵文化財センターに保管されているが、発掘調査前の家人が掘られた品を許可を得て保管されたきたようだ。民具の見学と共に近くの小学校の児童が大昔や少し前の時代の暮らしを学びに訪れるそうだ。昭和47年に国史跡に指定されているが、いまだ整備はできていない。
  女性の頭骨ー縄文人からのメッセージ                    2500年前の頭骨     
  日下貝塚からの出土品を見ると、約3000年前の自然を畏れ、平和に助け合って共存していた縄文人の暮らしを想像することができる。しかし、このまま地球温暖化が加速すれば海抜25メートルの高さにあるこの遺跡が海抜2〜3メートル当時と同じ「風景」を見せることになるのでは、と恐れる。この日下貝塚遺跡から<平和>と<環境>を考えたいものだ。
 最寄り駅 近鉄奈良線 石切駅下車 北西へ1500メートル



 郷学校跡(正法寺・大龍寺)大龍寺
  明治政府は、明治5(1872)年8月、明治維新後廃藩置県、徴兵令、地租改正などの富国強兵策の一つとして「学制」を公布し国民教育を推し進めた。学制に先立って河州河内郡日下村、芝村、植附村、神並村、喜里川村、六万寺村の6ケ村連名の「郷学校開設」の申請が堺県に出され許可されている。明治4年5月には、正法寺(現存せず)において教師2名、生徒数百名ほどでスタートした。当時、「郷学校」を開設した村、地域は殆どなく、この6ケ村住民の子どもたちの教育への願いと期待の大きさと共に、文化の高さが伺える。明治5年7月には、生徒数も増え近くの大龍寺に移っている。

 最寄り駅 近鉄奈良線石切駅下車、北へ800メートル


 今に残す黄檗伽藍 大龍寺
大龍寺山門 当山の縁起は推古6年(598)聖徳太子が自作の観音像を安置、創建したと伝わる。古くは厳松寺(げんしょうじ)と称していた。南北朝の時代には後醍醐天皇より、若干の寺田が寄進され、足利尊氏や足利義満よりも寄進を受けるなどした。応仁の乱の戦火で堂宇が焼失しその後再興されたが、大坂夏の陣で再び烏有に帰した。
 江戸時代の河内名所図会にも載っている黄檗伽藍の趣を今に残している大龍寺の白木和尚さんを訪ねた。山門の扁額には「瑞雲山」とあり、門をくぐると生駒山を背にした仏殿が目に入る。現在の伽藍は江戸時代に泰宗元雄禅師が大坂の商人天王寺屋を壇越として再興されたもので4万uもの敷地にゆったりと建てられている。棟札からは黄檗山萬福寺大工棟梁秋篠兵庫が携わったことが分かり、伽藍の中心をなす仏殿は元禄13年(1700)その南にある斎堂は元禄8年(1695)、総門は仏殿と同じ元禄13年に建てられたことが記されている。黄檗伽藍をよく残し、萬福寺大工が関与した貴重な遺構であり、開山堂を含めた4棟が市の文化財に指定されている。伽藍の北側の墓地には、上田秋成が日下に隠棲したとき世話した正方寺の尼僧唯心尼の墓がある。白木和尚さんの話から、禅寺での日々の暮らしや修行の様子を聞かせていただいた。今の学校教育に話が及び人間が人間たりえるためにあれもこれも大事ということでなく、必要な内容にもっと焦点をあてることが大切という指摘は同感。
  最寄り駅 近鉄奈良線石切駅下車、北へ800メートル


 実在の人物を祀る丹波神社
丹波神社  日下の人々から「丹波さん」と親しまれている「丹波神社」は、祠の前に石の鳥居があり、いかにも村の社らしい。祠にある墓碑にある「平朝臣古祐」と称したこの人、曾我丹波守古祐は大阪西町奉行で2000石取りの旗本。寛永11年(1634)から万治元年まで25年間在勤した。その間、日下村の領主として以下のような数々の善政を行ったと伝えられている。
@社の南にある御所ケ池を改修し、用水を確保し旱害を無くした。
A樋の伏替え、堤の上置、腹付の土砂止めの松苗の植林などをご入用普請として実施。
B風流の人でもあり、川澄邸の棲鶴楼庭園、鳴鶴園と呼ばれる旧森家の庭を造る。
  明暦4年、万治元年(1658)に没したがその徳を慕い神として尊敬する村人らにより、御所ケ池の岡の上に墓を作りその霊位を神と崇めて奉斎された。今もって曾我丹波守古祐の威徳を偲び、地元の人たちに大切にされ続けている。丹波神社を訪れたその日も、日下の自治会の人たちが境内を掃除されていた。
 境内には大人一人でもなかなか持ちきれない力石があった。稲の収穫、豊作を祝う秋祭りには曾我丹波守を偲び楽しく多くの人が集い、力自慢大会もあったことでしょう。
  最寄り駅 近鉄奈良線石切駅下車、北へ600メートル


 「盾津の浜」の碑と「神武天皇」
 
孔舎衙小学校を生駒よりに4、50メートル上がったところに「盾津の浜」の碑がある。
日本書紀に「神武記」に東征のとき、長髄彦との孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで、「神武」の兄、五瀬命(イツセノミコト)の肘に流れ矢が当たり、それ以上前進することができなく退却を余儀なくされ、「そこで草香の津までに戻り、盾を並べ、声を揃えて勇ましく雄誥(おたけび)をした。<雄誥、これを鳥多鶏糜(ヲタケビ)という> このため、あらためてその津(元の名は、草香邑青雲白肩の津)に名づけて盾津という。いま蓼津といっているのは、これが訛ったのである。」とある。また、「茅渟の海=河内湾、傷ついた五瀬命の血を洗い流したことから血塗りの海が訛り転化し茅渟の海というようになった。」と、盾津と茅渟の由来が書かれている。
 海抜20メートルほどの新しい住宅地の中に立派な石組みの壇の上に「盾津の浜の碑」が立っている。戦前は大切にされただろうが、現在は子どもの遊び場のようになっている。
 ここがおよそ2000年前「神武」が10年の年月をかけて日向より筑紫、吉備を経梶無神社てこの河内に上陸しようとした所とは、想像に難い。すぐ近くから古代、河内湾に迷い込んだ鯨の骨が出土していることや日下貝塚が目の前にあることを考えると2000〜2500年前この辺りは海岸であったことは事実のようだが。
 弥生人の象徴としての神武が「青山をめぐらす東方の地」(大和)をめざし、 上陸しようとしたが、日下坂で土着(縄文人)の統領である長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい迎撃を受け、一時撤退したということだが、神武は、「日の神の子孫である我々が日の出の方角に攻め込んだのがまずかった。」と深く後悔したというが、地形的にも当然、長髄彦側が有利だったことは明白だ。なお、石切劔箭神社に神武社が祀られており、ご神体は「神武」が武運を占うために空高く蹴り上げたという大岩だ。また、五瀬命が血を洗い流したという「龍の口霊泉」が近くにある。さらに、「神武」が利あらず船の梶をなくし漂揺したという伝説が残る「梶無神社」が南に下った六万寺に鎮座している。
 
最寄り駅 近鉄バス 孔舎衙小学校前下車 東へ約400メートル上がる


東大阪、四条・縄手へ   

「歴史と街かと」