「歴史と街かと」
 東大阪、若江・岩田・菱江地域

    若江鏡神社と雷神の手形石大坂夏の陣と木村重成公像、石田神社と三十六歌仙絵馬
    猿棟
、猫橋地蔵岩田墓地と河内七墓参り、慈雲尊者と観音寺、若江の忠霊塔街頭紙芝居
    西庄寺門前の子安地蔵、仲村神社と朱塗りの鳥居
   


 若江鏡神社と雷が落ちない謎
 鏡神社
                         
 若江鏡神社は、式内社で歴史が古く、若江廃寺と共に建立されたようで、息長足姫命、帯仲彦命、そして大雷火明神を祭神としている。古代の河内湖に面し清水の湧く入江の微高地であったようだ。交通の要所でもあり、河内を治めるのに適しており、若江鏡神社を中心にできた町並みを利用し平城だが若江城も築城されている。なお、この若江城には、織田信長が5回訪れている。
 祭神が大雷火明神(オオイカヅチホアカリノミコト)ということもあるのか、司馬遼太郎さんが「街道を行く」で紹介されている『河内一の勇壮な祭り』が例年10月10,11日に行わている。
 宮入は、岸和田のだんじりに負けず劣らずの豪快さは最近、とみに人気が出ている。特にだんじりの屋根に登る狐のような仕草をする大工方、それは祭りの雷神の手形石華だ。面相は醜男(しこお)だが、この日のために「イキの良い若衆」が練習を重ねる。
 本殿の裏には、「鏡怐vといわれる渡来してきた豪族の后の墓がある。また、本殿の前庭にある『雷神の手形石』は斉衡元年(854)に雷が誤って神前に落ち、神の怒りに触れて天界に帰れなくなった。『若江には二度と落ちない』と約束の手形を神前の石に残し、許されて天に戻ったという伝承にはおおらかでゆったりとした時代の面白さが感じられて愉快だ。(上のスケッチは山田修さん作)  
  最寄り駅  近鉄奈良線 若江岩田駅下車南へ1500メートル




 大坂夏の陣と木村重成公像                                             
 クリックしてください。木村重成の妻 「尾花」自刃の遺書を載せています。              
 時は、1615年5月。いわゆる大阪夏の陣「若江の戦い」が、旧大和川と玉串川をはさんだ湿田で行われた。徳川側藤堂高虎、井伊直孝勢15000が南から攻め入り、迎え撃つ豊臣側木村長門守重成、長曽我部盛親9700が交戦した。戦いは双方で死者1400名という激しいものであった。その死者の中に豊臣秀頼の小姓、木村長門守重成がいた。木村重成は当年19才ともいわれ美しい若武者であったが、討ち死を覚悟した木村重成の毛髪から匂い立つお香の薫りに、首実検した徳川家康は、その見事さに「言葉を失った」と言われている。河内名所図会
 木村重成が戦死した地(木村公園)に150年後、井伊直孝方の安藤長三郎の子孫によって供養塔が建てられた。戦場で一瞬の輝きを残しこの世を去っていった若武者に多くの共感を呼んだ。そのお参りに豊公贔屓もある大阪の女性を中心として「重成参り」がはやったそうだ。商家の娘さんも「重成公」をお参りすると言えばお許しがでたようで、この辺りが大変にぎわい供養の花を売るお店が何軒も軒を連ねたそうだ。
  「河内名所図会」には、今は第二寝屋川になっている小川を挟んで、右隅に木村重成墓(木村公園)を描き、重成に破れた徳川方の山口重信の供養塔(現在若江墓地)を画面の中央に、鬱蒼とした森とあわせて大きく立派に描いている。時の支配者に遠慮してか重成の墓を貧弱に描いた作者だが、大勢の墓参りする武士や農民・庶民の姿を描き賑わいぶりを表し、重成の武士としての生き方に敬意を見せている。当時、重成公の墓参り用の供養花と側の松の葉と湧き水を売る店が並び、特に松の葉は元気になると言うことで定価12文だったそうだ。重成公の供養塔にお参りする人々が多く、山口重信の石塔を支えている「亀」の寂しそうな鳴き声を聞いたとの話が今に残っている。
 また、同じ河内名所図会に、木村重成隊を道案内した高井田村出身の弓の名人、飯島三郎兵衛の供養塔を右上に紹介している。今も、木村公園に供養墓が祀られており、若木村重成公像江岩田か木村重成堂らの途中に重成が陣を置いた場所に木村重成公像が建っている。肖像画は、木村通りに面している蓮城寺さんが大切にされている。
 
重成は炎上する大阪城を見なかった
 重成が5月6日の午前中の藤堂高虎隊先方の藤堂良勝との戦いで勝利した後、昼頃に大和川右岸に立ち、大坂城を望見している。現在弥栄神社(中小阪にあり、小阪駅南へ800メートル。司馬遼太郎記念館の南側 )の敷地にある「馬立」の跡である。東大阪市の説明文には「炎上する大阪城を見た」、とあるが大坂城はあくる7日の午後5時頃に炎上している。重成は落城する姿を見ていない。
 討ち死を覚悟していた重成は、馬の背に立ち威風堂々たる大坂城を万感の思いを持って遠くから望んだことであろう。
  木村公園、木村重成公像には 近鉄奈良線若江岩田駅下車南へ1000メートル



若江の忠霊塔

 町のシンボル、若江の忠霊塔

 若江のシンボルとしてまた、地図の目印として親しまれてきた忠霊塔は、高さ約12メートルの御影石で作られた見事なものだ。
 この忠霊塔は、太平洋戦争で息子さんを亡くされた方が建てられたものだが、幾多の戦争で亡くなられた若江に縁のある兵隊さん260柱を合わせて祀られている。戦後50年間、4月8日、花祭りの日に合同慰霊祭が行われていた。忠霊塔の敷地にある5本の桜も満開、大勢の地域の人たちが参列されたようだ。人のつながりを大切に、そして、人への限りない優しさの表れとしてこの忠霊塔があるようだ。心から平和を祈念したい。今年(2005年)から8月15日、終戦の日に合同慰霊祭が遺族会の皆さんによって行われるようになったと聞く。
  最寄り駅 近鉄奈良線 若江岩田駅下車南へ500メートル




 石田神社になぜか三十六歌仙絵馬
 社伝によると1400年前の欽明天皇の時代にこの地の田んぼの中に「磐船」があり、八幡三神が現れたという。故に祭神は、仲哀天皇(足仲彦尊)、神功皇后(息長足姫尊)、応神天皇(譽田別尊)の三座を祀り、後に天照大神と天児屋根命を配神されている。石田神社
 明治に作られた「大阪府全志」によると幸~怐i東の塚)と無名怐i西の塚)の間に全長35メートルの「磐船」が埋まっていると書かれているが、「磐船」とは、はたして何か。八幡三神の神座か、饒速日尊が天下った天磐船か、古墳石室の一部なのか。解明したい東大阪の謎の一つだ。
 本殿は朱塗りの一間社・流造り。拝殿には、宝暦9年銘の大絵馬と江戸時代作と思われる三十六歌仙、六人を一組にして画いた扁額六枚がある。境内には江戸時代の狛犬、灯籠、手水石等の石造物がある。これらのことから考え、江戸時代の岩田地域は、豊かな暮らしの中にあって和歌や連歌等を嗜む人々が行き来し、文化の香りが高い地域であったと窺い知れる。また、幹周り約五メートルの樹齢数百年の大楠がある。深遠な神社森の自然を残すすがすがしい雰囲気のある瀟洒な神社だ。(上のスケッチは山田修さん)
  最寄り駅 近鉄奈良線 若江岩田駅 北へすぐ



  屋根の上にある猿の置物(猿棟)と猫の欄干              
猫橋地蔵珠を持つ猿 近鉄若江岩田駅を降りて北へ歩くと、ふと目にはいるのが棟の上の猿の置物。よく見ると東側と西側に2匹座っている。東側には玉を持った猿。西側は御幣と扇を持った瓦製の猿が置かれている。2匹とも南方、住吉神社の方向を向いているのは、江戸時代、岩田村と意岐部村と悪水(排水)をめぐる争いが絶えずあり、住吉大社に解決をお願いし、勝利したことのお礼に置かれたため。災いが去る(サル)。災難、災いが去り人々が幸せに暮らせるようにと当時、庄屋さんであった石田家当主の発案のようだ。この屋敷そのものはは吉宗が将軍になった年、享保元年、1716年にに建てられている。
 また、この近くの岩田西小学校南門前に猿橋地蔵がある。幸~怩ニ無名怩フ間を流れていた用水路にかかっていた橋の欄干が猫の姿をしたことから「猫橋」と呼ばれた橋が有ったそうだ。その猫橋の下から掘り出されたお地蔵さん6体を祀る「猫橋地蔵」が今も地域の人の信仰を集めている。石仏はいずれも阿弥陀像だ。
最寄り駅 近鉄奈良線若江岩田駅下車 北へ200メートル
  


岩田墓地

  岩田墓地、河内七墓参りで無病息災
 行基菩薩ゆかりの河内の長瀬、岩田、額田、神立、垣内、恩智、晒の七墓を盆にお参りすれば、下の世話をかけずに黄泉の世界に逝くことができるということで、江戸時代より浪速の老若男女に人気があったスポットだった。当時の河川を利用して舟で参ることもできたようだ。
 岩田墓地は現在でも墓市が行われ大変にぎわっているが、当時も日常雑貨や女性用、子供用の衣料品を売る店が並び盂蘭盆会の準備もできたという。
 行基菩薩は、天智7年(668年)家原寺で生まれる。749年 82歳、菅原寺で没する。奈良時代の高僧。百済系の渡来人。貴族中心の国家仏教に背を向け民間布教に従事。信者の力により寺(49)、池(15)、道、橋(6)、布施屋(9)を各地に開く。東大寺の大仏建立に協力する。一時は藤原不比等に迫害されるが大僧正になる。
<岩田墓地>最寄り駅 近鉄奈良線若江岩田駅北へ400メートル 

 長瀬墓地には、岩田墓地と同じような行基供養塔があり、「行基井」が現存している。長瀬墓地の側に吉松橋があり、ここに船着き場があったようだ。老いを迎えた人は、今も昔も同じで「周りに迷惑をかけず極楽往生」 へと、思うもののようだ。
<長瀬墓地>
 
  


 観音寺と慈雲尊者の所縁とは
 
観音寺は、猫橋地蔵から西へ300メートル程下がったところにある。江戸時代にサンスクリット語の辞典を作り、書をよくした慈雲尊者の弟子の尼さんが開き、十一面観世音菩薩を本尊として祀っていいる。近在の人々の信仰を集めていた寺で、現在は真言宗である。
 なお、慈雲尊者は高井田の長栄寺と山麓長尾の不動寺間の行き帰りによくこの観音寺に立ち寄った。


  
  安産祈願のたえない菱江の西庄寺門前子安地蔵尊
 焼けた跡が痛々しい地蔵尊                  
 府道八尾枚方線の近鉄バス菱江中ノ町停留所より南東約200mの地点に西庄の地蔵尊が祀られている。西庄寺の門前に位置し、地蔵尊は舟形光背(ふながたこうはい)の黒ずんだ花崗岩に高肉彫りされた古風な立像の地蔵菩薩である。上下二段の蓮華座(れんげぎ)に立立たれている地蔵尊は、全高113cm、幅30cmあるが、風化が激しくもとの姿を留めていない。全身の厚みのある肉付きと二段構えの蓮華座の造りなどからみて南北朝、室町時代前期のものと考えられている。この地蔵尊は仲村神社東側にあった菱江寺(伝聖徳太子建立)の遺物で、南北朝の戦乱で寺が焼失したとき、この石仏もいつの間にか土に埋まってしまった。確かに地蔵さんの腹部は焼けた跡のように少し赤茶けている。後に焦土の中で埋まった石仏を畑を耕していたお百姓が、掘りおこした時に鍬があたり残念ながら、この地蔵尊の鼻がかけてしまったということだそうだ。
 当時は、田圃の畦に祀つられお百姓さんらの心の支えになっていた。ここ西庄寺門前に祀つるようになったのは、明治になってからで、もとの畦に戻そうとしたところ、動かすことができないくらい重くなりお地蔵尊が「帰りたくない」と言ったそうで、爾来ここで祀られるようになった。地域の人々から安産に霊験あらたかということで崇敬もされ、遠くからもお参りにこられているとのこと。現にお地蔵尊には赤色でなく子どもが好きそうな色鮮やかな模様の前掛けが幾枚と掛けられている。
 なお、昭和53年には東大阪市の有形文化財に指定されている。





 仲村神社鳥居仲村神社と朱塗りの鳥居
淡路島に向かって建っている鳥居 ここ仲村神社は、古くて伝統のある神社ですが、謎の「朱塗りの鳥居」があることで有名。。
 実は式内社仲村神社で、元々中村神社であった。現在の祭~は己々都牟須比命(こことむすびのみこと)で、境内の手水鉢の銘文から、江戸時代には「仲村宮」と呼ばれていたことが分かっている。「中村」から「仲村」に変わった経緯も興味があるが、仲村宮は旧菱江村の鎮守さんであるとともに「疱瘡の神様」として村人をはじめ近在の人から篤い信仰を集めていた。
 拝殿前の石段の亀腹部が移築されており、そこには、宝暦十年(1760)に淡路島在の阿波藩主蜂須賀家の家臣、陶山興一左衛門が病気の平癒を祈願した後、めでたく完治したことを感謝し謝恩を込めて社殿と朱塗りの鳥居(元文三年、1739)を寄進したことが刻まれている。よって、この朱塗りの鳥居は淡路島の方に向かって建てられた。この鳥居からは仲村神社の病魔退散、家内安全に霊験あらたかで、当時は大変賑わっていたことが想像される。また、大坂の庶民のために「伝染病が広がらないよう」にと祈願と謝恩を込めた大阪城代、掘田正順寄進の石灯籠一対が現存している。
 他に、扁額や菱沢池など見るべきものが多くある。(仲村神社鳥居のスケッチは山田修さんの作品です。)
  場所 東大阪市菱江2−2−50




  「黄金バット」は健在             鬼塚悦子さん
 街頭紙芝居屋さんが街角から消えて久しい。日本固有の文化でもある「紙芝居」を積み、自転車で街々を回り、子ども達に食と文化を提供してきた街頭紙芝居。一時は全国で5万とも6万ともいわれた街頭紙芝居業者さん。そのブームのきっかけが、1938年誕生の彼の「黄金バット」。
 東京オリンピック、大阪万博を契機にあっと言う間に町から消えた紙芝居。消えたのは紙芝居だけでなく、子どもの言語文化。語る紙芝居のおっちゃんとのやり取りの中での文化の伝承。それがなくなり、人間関係がさらに薄くなり、一方通行で一人で楽しむことができるテレビゲームが全盛。これが、現在の子ども達の状況を規定している。唾が飛んでくるような近さと巧みな話術に毎日見に行った街頭紙芝居。形を変えてでも、復活させたいものだ。
 そのような願いを持って若江に幼稚園や小学校を回って街頭紙芝居の面白さを伝えている人が上の写真の方。
  



 


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